第三章

 注意の向いた耳が、応える声を拾う。硬く、低いトーンの女の声。緊張というよりは嫌悪に近く、若干震えているのが分かる。

 そして、この声もやはり──聞き覚えがある。

 柑橘系の香りがする。

 視界の端にダークブラウンの髪が見える。

 梶宮の思考回路が、「まさか」と期待し、「ありえない」と否定した。強烈な印象と記憶があいまいに裏付け、二週間で痛感した現実が希望を捨てろと促した。

 東京は広い。名前も知らない他人を探すには。

 それでも、出会ってしまう縁を梶宮は知っている。その縁を無駄にしてはいけないことも。

 視線を移す。

 車両内の人混みは、いわば大量の「他人たち」だ。彼らは互いに干渉し合おうとはしない。自分の手元に意識を向けている人々の中で、たった一組の男女が向き合って小声で言葉を交わしている。

 女は梶宮に背中を向けていた。けれど、男の顔に見覚えがあった。

 過剰に密着していた二人の背中を、梶宮は知っていた。

 神への呪いを取り消し、謝罪し、信仰心を取り戻すどころか、足にキスをしてもいいと思えるだけの力を持った二人組だった。

「あのときは、悪かったって」

「……なにが?」

「だから、ほら……」

 彼らが、ぎこちない表情で、微妙な距離を保ちながら、他人のような会話を交わしている原因は、梶宮にあった。

 そして、切られた縁が今まさに繋ぎなおされようとしているのは、見るからに明らかだった。

 彼らの縁がどれほど強いものなのか、梶宮は知らない。