第一章 暗中に泥む
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耳と鼻からぬめりと抜けるような感覚が走った直後、一気に視界が開ける。
気付くとイドは前回投げ込まれた所と同じと思われる労働部屋にいた。
先程まで自身を拘束していた黒い半液体の行方を復帰した目で追う。が、
──……消えた、か。
床を這ったと思ったら少しの間をもって気泡を上げながら霧散。跡形もなく消え去るそれは、さながら蒸発する水のようだった。
「あれは何なのだ」
金網の上にいる看守へ向けて問うが答えは返って来ない。ここ労働部屋で返ってくるのは覆面の奥に押し込まれた役割だけだ。
押せ、と端的に看守が告げたやにわに部屋中央の支柱が回転。可動部から塵を巻き上げながら棒の壁が迫る。
イドは半ば反射的に壁を受け止めて拮抗させようと腰を落としたが──『キツけりゃサボる方法探しゃいいだろうが』──脳裏を過る隣人の声で脚の入力を緩ませた。
──そうじゃ。
そして受け止めたまま壁の動きに合わせてゆっくりと後退する。
──以前と同じで居てはならん。愚か者めが。
イドはこの部屋へ来る前の食事時間に、前回労働の様子について振り返っていた。振り返って、いくつかの疑問を抱えていた。
その内の一つ。
前は迫る壁をがむしゃらに押し返していたが、押さなかった場合どうなるのか。
イドの背後ろにあるのは空間。その先に部屋の壁。しかしそれに衝突する事はない。
落ち着いて考えれば何の事はない。なぜなら部屋の中心にある支柱が回転しているのならば、棒壁を押したところで円を描くように同じ所を回り続けるだけなのだから。
そしてそれは押さずとも同じ。
棒壁に押され続け、同じところにまた戻るだけだ。
棒壁に手を添えてイドはちらりと顔を上げる。
視線の先には看守。
今の状況は労働の体を為していない。ならば罰則でも飛んできて然るべきなのだが、向こうからの咎めがないという事は──。
もしや、とイドは眉を寄せ胸中で呟く。
──押すこと自体が労働ではない、のか……?
強制させてまで押すことに従事させようとしない看守の行動を鑑みると、その考えに至ってしまう。
そうであるなら、ではこの部屋の意義とは一体何なのか。
イドはもう一度看守の方を見やってから、今度は棒壁から手を離した。離して、棒壁に追い付かれないように支柱の周りを歩き出した。
一周。
二周。
ぐるり。ぐるり。
回って。巡って。
初めは棒壁から逃げるように歩いていたイドであったが、しばらく歩き続けると今度はイドが旋回する棒壁を追うような立場となり、労働は完全に破綻した。
それでもイドは警戒を解かなかった。
と言うよりも、解けなかった。
この状況を目下に捉えておきながら、何をするでもない看守が纏った静寂が不気味だったからだ。