第一章 暗中に泥む


     2


 脚が自由になった。
 と思った次の瞬間、唐突に浮遊感が訪れややあって身体のあちこちに衝撃が走った。
 放り投げられたらしい。
 床に這いつくばって痛みに耐えていると腕が自由になる感覚が。耳が色を取り戻す感覚が。嗅覚が順に訪れそして──視界が一気に開きイドは飛び起きた。
 イドを拘束していた半液体の黒は、今はもう跡形も残っていない。足枷も無い。

「──立て」

 不意に頭上から降ってきた声に視線を上げると金網の足場の隙間からこちらを見下ろしている人間が居た。
 覆面で顔を覆っているため表情をうかがい知ることは出来ないが平坦な声が続く。

「押して回せ」

 指で差された方へ視線を移すと部屋の中心に支柱があり、その支柱から垂直に飛び出た幅広の棒が見える。棒は全部で三本。それぞれの間隔は狭く、通り抜けて向こう側へ抜ける隙間はない。

 ──……なるほど、これが労働か。

 イドは座り込んだまま頭上の人間を睨む。
 押し回すことで何かの動力へ繋ぐための装置だろうが、

 ──誰が従うか。

 動くつもりなど毛頭無い。
 ましてや労働に従事する事で頭上の人間たちに利益が生まれると考えると虫酸が走る。
 そうやって上を凝視したまま動かずにいるとばきんと何かが弾けるような音がして──見ると支柱がひとりでに回転を始め、突き出た棒の壁が目の前まで迫って来ていた。
 咄嗟に跳ね起き両手で棒を受け止める。が、旋回の力が強い。じりじりと後ろへ圧されて足裏の皮膚が毟れるような感覚が走る。
 イドは額を棒に押し付けて全身に命令を伝達させる。
 腕の強靭が足らないのならば腰を落とせ。脚力を充足させろ。

「く、ッ──!!」

 腹の奥から漏れ出す声と共に押し返す力が跳ね上がり、棒の壁の進行が止まる。しかしイドはそのまま拮抗させるだけに留まらず、壁を押し込んで更に一歩、足を踏み出した。
 続けて一歩。
 もう一歩。
 無言のまま壁を押してイドは頭上の人間を睨み付ける。
 労働はそれからしばらく続き、腕に力が入らなくなる頃にようやく終了を迎えた。その後は頭上からあの筒が落ちてきて拘束。視界が戻ると牢に戻っていて、腕を揉みほぐしていると隣室から声が飛んで来た。

「お勤め御苦労さん」

 お前もだろうと思ったが口には出さない。

「だーいぶ堪えたと見える」

 ローヤの言う通り身体のあちらこちらが悲鳴を上げている。特に前腕が酷い。この調子だと食事を摂るのに支障を来たす。そのくらいの深度の疲労がイドの身体を覆っていた。

「俺も最初はそうだったからなー」

 正直言ってもう二度とあの部屋には行きたくない。と思うと同時にイドは自分の貧弱さに落胆していた。