第一章 暗中に泥む

 名が無い、というのは不便なことだ。不便なことだし不憫なことだ。そしてどうしようもなく寂しいことだ。
 名が無い人、人々がいる事をイドは知っている。例えばそれは、

「別に俺は奴隷とかではねえよ」
「む、お、何。そうなのか」

 考えていた事を先回りされ、イドは思わず面を喰らった。それと同時に思い出す。聞き間違いでなければ男は確か今は名前が無いと言っていたはずだ。だとすれば何かしらの理由があって失った可能性がある。
 ただ、その理由を聞いたところで簡単に開示してはくれないのだろう。仮に逆の立場であってもそうだ。出会ったばかりの、しかも牢獄に捕らえられた故も知らない人間に自分の事をそう易々と話すことなどあり得ない。

「儂としたことが早合点を。済まぬ」
「なにお気遣いなく。俺のことは好きに呼んでくれ」

 と言われてもそう簡単に呼び名など出てくるわけもなく、イドは眉間にしわを寄せる。

「あんま深く考えんな。適当でいいんだよテキトーで。牢屋で会ったからローヤとかな」


 それはそれで適当過ぎやしないだろうか。
 しかし本人が良いと言うから追求はしないでおく。

「そうか。ローヤ。儂はイドと言う」
「変わった名前だな」

 お前に人の名前をどうこう言う権利はないぞと思いつつ、逐一反応していては身が保たないのでイドは聞かなかったふりをして問いを投げかける。

「ローヤはいつから此処に居るのだ?」

 それに対する隣人の返答は速い。

「分かんね」
「……適当が過ぎんかお主」

 呆れを通り越し、一周して感心すら覚えるほど開き直った清々しい声に一種の境地を感じる。
 この仄暗い部屋に押し込まれ続けたら、いつかは自分もこうなるのだろうか。いや、その可能性は低い。こんなに陰気な空間に居座って磊落に構えていられるのは少し頭の可笑しな奴だ。
 そんな風にイドが考えているとローヤは言う。

「いやでもよく考えてみろって。朝か夜かも分かんねえのにいつからここに居るかなんて覚えてねえよ」

 確かに。
 ここには窓が無く、鉄格子の向こう側で揺れる炬火の揺らめきが唯一の灯りとなっているから明るさの変化がほとんどないから時の流れる感覚が極端に希薄になる。

「それにさ、アンタだってとっくに今がいつなのか分かってねえだろ」

 その通りだった。
 一度眠ってしまったのも一つの要因であるが、投獄された時点で言えばイドは気を失っていたのだ。そこから目覚めるまでどれほどの時間が流れたのかすらも分かっていない。

「ふむ……適当にならざるを得ん、というか」
「考えるだけ無駄って感じなんだよな」