第一章 暗中に泥む
それから隣室の男から声が返ってこなくなった。
再び訪れる沈黙の中、イドは寝転がって手足を伸ばす。
人と会話したせいだろうか。つい先程まで頭の中を覆っていた憤りや不安がわずかながら晴れているようにイドは思う。
しかし状況は一切変わっていない。
これから何をどうすれば良いのか。永遠にも感じる静寂でイドは思案を続けた。
その途中でいつの間にか眠ってしまったらしい。明くる目覚めは、驚くことに隣室の男の声で迎えることとなった。
「──おい」
男の声に、イドはゆっくりと意識を覚醒させた。
何も返さずにいると男が続けて言う。
「おい。寝てんのか」
「…………」
「何とか言えよ」
男の舌打ちが聞こえる。
前は黙っていろとか言っていたくせに随分と自分勝手な奴だなと思いながらイドは寝起き直後の愚鈍な思考を立ち上げて答える。
「ああ寝ておるよ。だから静かにしていてはくれぬか」
先の隣人の言葉をそのまま使ったのだ。さぞかし心証の悪い返しだったであろうなとイドに自覚はある。
しかし隣から聞こえてくる声に不満の色は無い。
「固いこと言うなよ。少し話そうぜ」
いや、不満どころか人好きのする軽妙な印象さえ受ける。
「お主、大らかな性格だとよく言われんか?」
「そういうアンタは負けず嫌いってよく言われるだろ」
先の返しのことを突かれているらしい。
このまま言い返すと男の言うことを認めることになりそうで癪だ。しかしそれとは反対にこちらが折れて上手をいこうと会話に応じても結局は負けず嫌いと暗に認めることになってしまう。
「ぐぬぅ……」
二重拘束な状況にイドは低く唸って観念した。
「まあ隣室同士仲良くしようや」
「宜しく頼む」
隣室側の壁にイドは背を預ける。
それにしても、こんなに陰気な所に投獄されている割に気力の滅入りを隣人からあまり感じない。
牢に入ってまだ日が浅いのかもしれない。そうやって推察していると男は軽い調子で次の言葉を発する。
「アンタ、名前は?」
「人に名を聞くときはまず自分から開示するのが礼儀ぞ」
「言われると思った」
「わざとか」
イドが少し呆れ気味に返すと男はからからと笑う。
「いや俺もさ、名乗れるもんなら名乗りたいんだけどさ、今無いんだよね」
「無い? 何が?」
とん、と隣室から音がする。
壁を小突いたのか、はたまた背を預けたのかは分からないが、ややあって男は自嘲気味に笑って告げた。
「名前」
しばらくの沈黙が流れたあと、男は何事もなかったかのように飄々と言葉を再開する。
「期待通りの反応ありがとう」