第三章
しかし、今の状況は普段と少しばかり違っていた。優菜を抜いていった自転車が、屋根の上から道路を見下ろす巨大な狼の目の前を通ろうとしている。あの狼は、ナイトハンターと呼ばれる「人に危害を加えるモノ」かもしれない。優菜は「行方不明」の現場を目撃するかもしれない。
狼が鼻先を自転車へ向ける。
──男子学生は気づかない。
座った状態のまま、前肢で足踏み。
──自転車が狼へと近づいていく。
わずかに顔の角度が変わり、金の瞳が月光を跳ね返す。
──ナイトハンターの目と鼻の先を走り抜けた。
静寂。静謐。ひっそりとした夜。自転車の前照灯が揺れる。
男子学生が角を曲がり、狼が一つあくびをして、ようやく優菜は止めていた息を吐き出した。力がこもっていた手を軽く振り、深呼吸を繰り返して緊張をほぐす。ひとまず、誰かがナイトハンターに捕らえられる場面は、見なくて済んだ。あとは、自分の身を守ることを考えればいい。
幸い、住宅街の道は複雑に入り組んでいる。最短ルートなどにこだわらなければ、ある地点を避けて通ることは難しくない。それでもなるべく早く家に着くような道順を考えて、優菜は近くの角を曲がった。
街灯の数が少しばかり減るが、この際仕方がない。速足で歩を進め、次の角を曲がったところで、
「キミが、橋越優菜かい?」
背後からの問いかけに、優菜が振り返る。
逆光。LEDの灯が、声の主の後ろで強い光を放っている。瞬間白く染められた視界の中で、辛うじて捉えられたのは──紫の、長い髪。
「──っ!」
「おっと。騒いじゃあ、いけないよ」