Scene.1 仮面は色を装えない
人々を飲み込んだ電車は、扉を閉めて動き出した。流れていく景色に目をやる。どこを見るでもない、毎日眺めている風景ではあるが、色とりどりの感情を浮かべる人々を見続けているよりもよほどましだ。
とはいえ、電車の中に感情の色は少ない。
他人同士が集まる場所では、誰も彼もが灰色の仮面を被っている。個を出さない、個を出す必要もない公共の空間は、いつも全体的に灰色だ。友人同士で集まって登下校している集団が色を放っているのを除けば、電車内などの公共の場は私にとって過ごしやすい場所だと言える。
どす黒い感情は湧きあがるが、感情を押し込める苦しさを疎ましく思わないからだ。
車内アナウンスが、ついさっきテレビに映った地名を繰り返す。
同時に、電車が減速を始めた。
引きずられるように思い出したのは、昨日の記憶だ。
普段は通り過ぎるだけのこの駅で、私は一度下車した。
ルーチンから外れる行動は、私の心をわずかに色めき立たせたものだ。長らく押しこめ続けた黒い願望が、これから解放されるという実感も、それを手伝っていたのかもしれない。
電車に乗り込んでくる乗客たちから目を反らしながら、私は自分の腕を強く掴んだ。
一度、恐ろしいほどの解放感を覚えてしまったからだろうか。当たり前に抑え込めていた感情が、今日はやたらと外に出ようとしている。
習慣でついスカートのポケットに忍ばせてしまったが、折り畳みナイフも持ち歩くべきではないのかもしれない。
感情を押さえられなくなったら、白昼堂々、なんの計画もなく人を殺してしまう可能性だって、ある。
電車の扉が閉まって、ようやく私は腕から力を抜いた。
昨夜の甘美な記憶は、まだ脳の奥底で熱を持っている。
あれは、忘れがたい経験だった。
可能ならば、もう一度味わいたい──だからこそ、今はそれを思い出さないように努力する必要がある。
そう思った時点で、私は人の道を外れているのだろう。
そもそも、私が今まで人の道を歩けていたかどうかは定かではない。人間のふりをした別のなにかだと考えた方が、私の気持ちは楽になるのだから。
さほど間をあけず、電車は再び減速を始めた。
鞄を持ち直し、もたれていた背中を離す。
深く呼吸をして、余計な思考を頭から追い払った。これから向かう場所に、真っ黒な思想は持ち込めない。学校は、私が適応するべき小さな社会。羊の群れに狼が溶け込めないように、社会に害なす思考は社会に溶け込めない。