第四章 国境の町
「グレンは昨日夜ごはん食べそこねちゃったし、お腹すいてるよね? 冷めない内に食べよう?」
最近似たようなことを言われたな、とグレンが昨日のことを思い出した直後、クローディアの言葉につられるようにぐうと腹の音がした。
くすりと笑いながら、クローディアは紙袋をテーブルの上に移し、封を開ける。途端に食欲をそそる香りが広がって、グレンは今更空腹を自覚した。
自覚してしまえば気を紛らわせるのも難しい。もやもやと留まっていた不信感もどこかへ行ってしまって、グレンはクローディアに従って椅子を引いた。
「グレンもきっと気に入ると思うよ」
そう言ってクローディアが手に取ったのは、薄く焼いた生地の包みだった。グレンの胃袋を刺激したのは、香ばしく焼いた生地の香りだったか。細長く持ちやすい形状で、いかにも軽食らしい。
手を汚さずに持てるように巻かれた薄い紙を掴んで、グレンは軽食を受け取った。鼻に近付けて嗅いでみても毒物の有無が分かるはずもなく、むしろ空腹に追い打ちをかけることになって、グレンは折り合わされた生地の角にかじりつく。
ぱり、と軽い音がしたのは生地の表面だけで、内側はしっとりと中身の汁気を吸っていた。生地の中には煮込んだ肉と野菜が入っていて、とろみのある褐色のソースがじわりとあふれる。口の端からこぼれそうになって、グレンは慌てて指で拭った。
「……うまい」
「でしょ?」
グレンと向き合って座るクローディアが、同じ軽食を手に微笑む。そのまま一口かじったのにつられて、グレンもつい食を進めてしまう。
「今まで、簡単な料理しか食べてなかったもんね」
ぽつりとクローディアが言ったのは、グレンが半分ほど食べ進めた後だった。
「んあ? ……あぁ、まぁ、そうだな。味付けと言ったら……その辺に生えてた香草? とか?」
「別にそれが不満なんて思ってないんだけど。でも……」
「でも?」
「世界って広いんだなぁ、って思って」
「なんだそりゃ」
言いながら、グレンは小さくなった生地の包みをかじる。
クローディアは、グレンがなんとも思わないことから色々と考えを広げていく。そこまで至った思考の経緯など、グレンには想像もつかない。
「大きな世界を守らなきゃいけないんだなぁ、ってこと」
よく分からずにグレンがクローディアへ目を向けると、彼女は薄明るい光の中で窓の方を向いていた。西を向いた窓から入ってくるのは穏やかな朝の光で、クローディアの世の果て色の髪はいつもより青みを増しているようにも見える。
視線に沿ってグレンが窓の外を見れば、広がる草原の景色がある。すぐ近くに一つ、遠くにもぽつぽつと町が朝日に照らされていて、さらに奥を見ようとすると薄青い靄がかかっていた。
靄の正体は空気に微量に含まれる神の魔力だと教えてくれたのは誰だったか。
「グレン、こぼれるよ」
「え?」
景色に気を取られたら手元がおろそかになって、傾いた生地の包みから肉がこぼれそうになっていた。
子供みたいなことを指摘されたな、と思わなくもない。気恥ずかしさを隠すように、グレンは口を動かして食事に集中する。
クローディアの言う通り、今までグレンたちが食べていた食事とは使われている食材の多様さから調理方法までまったく違う。これも「軍」という国に属する組織の権利の一つなのだろうか。
「ふふ」
「? なに?」
「あんなに疑ってたけど、結局全部食べちゃったね」
「…………あ」
くすくすと笑うクローディアに、グレンはなにも言い返せない。
そう。あのいけすかない軍人が持ってきたものでなければ、もっと素直に味わえていたはずなのだ。とはいえ最後までおいしく食してしまったのは事実で、それをクローディアに指摘されたことまで含めて気にくわない。
なんとなく居心地が悪くて、空になった包み紙をぐしゃぐしゃに丸める。
「もう」
グレンの反応に呆れたように、クローディアはため息交じりに言った。朝食を終え、あっさりとグレンから包み紙を奪って紙袋にまとめて放り込む。
続けて手に取ったのは、グレンが目覚めたときに使っていた櫛だ。
「座ってて。髪、結んじゃうから」
クローディアは言いざま、するりと胸元のリボンをほどいた。そのまま椅子に座ったグレンの背後にまわり、毛先から櫛を通していく。
昨日、同じようにして結んでもらった髪紐は、アルミュールで失くしてしまったのだろうか。
ぼんやりと考えていると、クローディアに声をかけられた。
「そんなに信用できない?」
「ふぇ?」
「ルシアンのこと」
ぐ、と自分の口に力が入るのを、グレンは感じた。
「できない」
「なんで?」
「なんとなく」
「グレンの『なんとなく』は、当たるもんね。アルミュールでもそうだったし」
だろ? とグレンが言う前に、クローディアはため息をついた。
櫛を通されながら、グレンはため息の続きを待つ。