第二章 深奥に滲む

「彼奴との約束を、よもや忘れたわけではあるまい」

 それに対するニールの答えは、数秒のいとまを置いて返ってきた。

「忘れるわけがないじゃないか」

 忘れるわけがない。とニールはもう一度呟いて伏し目がちに続ける。

「でもね燠の。あんたは死んだあの人との約束を、どう守れと言うの」
「お前も言うか、ニール……彼奴が死ぬわけなかろう」
「……死んだ」
「死なぬ」
「──燠の!」

 大空洞に響き渡るニールの声で意識を取り戻したローヤが起き上がって頭を振る。霞のとれない左目は、しかし目の前に広がる光景をしっかりと捉えていた。
 狼。
 巨大な狼と対峙するイドを見た瞬間、血の気が引く。
 イドが喰われる。
 そう思った。思って、イドの小さな背中を掴んで引っ張ってミラベルも担いで、来た道を走り抜ける──そのくらいの気概はあった。
 だが、すでに限界を迎えていた脚は言うことを聞かなかった。それでも伸ばした手は背には遥か届かず、地に這って辛うじて掴めたのはイドの足首だった。
 そんなローヤへ一瞥もくれることなくイドは大狼を見据える。

「ニール、彼奴が死ぬわけがない。お前も知っているはずだ。何故なら、」
「……」
「何故なら儂とミッドエルムは──不老不死を分け合ったのだから。最期の時まで共に在ろうと、語らい合ったのだから」

 洞窟の裂け目から清風が吹き抜ける。
 風は老草の花びらを捲き上げてイドとニールの間を通り過ぎ、従わせた香りを洞窟内に滞留させる。
 まるで空間に色をつけるかのように。
 しかし飄風。
 ほんのひと時だけ暴れた風は、それらを掻っ攫って消えていった。
 後に残った沈黙。
 それに穴を穿ったのはニールだった。

「だったら、なんであんたは姿を消した」

 イドへ向けたその言葉は落ち着いた声色に乗ってはいるものの、奥底には僅かな赤が滲んでいた。

「答えな。燠の」

 一拍置いてニールは吐き出す。

「何故あんたはあの人を捨て置いて四百年もの間、姿を消していたんだい」

 無音。
 近くで瀑布が流れ落ちる音も、風が岩を撫でていく音も。その全てが無くなったかのような錯覚がイドを襲った。
 それと同時、イドは声を失った。
 大広間でのミラベルの言葉など比ではない。
 旧知の友が発する言葉だからこその重み。ずっしりと胸にのし掛かってくる旧知の友の声を、イドは受け止め切ることができなかった。
 首を横に振るイドにニールは背を向ける。

「乗りな」

 彼女が吐く言葉に、

「あんたに見せたい物がある」

 つい先刻まで滲んでいた僅かな赤は、もう既に無かった。