序章 炎の剣と黒傭兵
雲一つない夜空の中にぽっかりと浮かぶ満月。その満月から漏れ出す淡い光が、起伏に富んだ夜道とそこを走る一台の荷馬車を照らしていた。
道の隆起に合わせ、馬車の車輪が音を立てながら地面を掴む。
普段であれば砂利や木の枝が散乱する山道だが季節のせいか散り落ちた桜の花びらで装飾されていて、鮮やかな桃色の道を作り出していた。
とはいうものの、花びらはほとんどが木々から落ちた後で、桜の樹木は葉桜どころか深緑の葉を青々と茂らせている。
春ではあるがそれも半ば。
北方にある故郷の桜もそろそろ散る頃だろうか。
馬車の荷台に乗った全身黒づくめの男ウィリアム・ハートフィールドは、そんなことを考えながら通り過ぎていく風景を見送った。
馬車が上下するのに合わせて黒の長髪と外套が揺れる。
ウィリアムの傍らには山積みの木箱が。
御者から聞いた話だから詳しいことは知らないが、近くの都市国家で豊穣祈願の祭りがあるのだとか。その関係で物資を都市国家に運び込まなければならないらしく、また、その祭りが結構な盛況をみせるのだという。
祭りで使うというこの大量の木箱の中身については、何が入っているかの説明は特に受けていない。しかしてそれはウィリアムにとってはどうでもいい事だった。
旅から旅の根無し草。
東西南北、津々浦々。
フリーの傭兵として世界を回る彼にしてみれば取るに足らない事だった。
雇う側と雇われる側。依頼主と金銭的な契約を結んでいる傭兵は、ただただ下された命令を聞いていればいい。
だが、何も全てに従う必要はない。もしも依頼主が下したそれが、傭兵個人が持ちえる信念や思想に反することであれば契約を打ち切ればいいだけの話なのだから。
いくら傭兵といえども心の善悪を選択する余地はある。
ただし、一度結んだ契約を打ち切るということは、それ相応のリスクを伴うものだということを理解しておかなくてはならない。
傭兵とは個人力である。個人が持ちえる能力がどれだけ優れていて、そしてどれだけの実績を重ねているか。
対する依頼主(傭兵を雇う側)は何か組織的な繋がりを持った旅団、国家などといった集団である場合が多い。
中には個人で雇い上げる人間もいるが極めて稀であるうえに、その背後にはとてつもない権力者がいて糸を束ねているという事もある。
たとえばそのような組織的な所から依頼を受けたとして、その内容といえば戦争や暗殺、要人護衛などが主だったものだから、機密情報が絡んでいる時も往々にしてある。
だから、もしも契約を途中で破棄するような事があった時、雇い主が逃げ出した傭兵を消そうと放つ追手の存在も考慮しなくてはならない。
そうなると個人対大勢力。考慮したところでどうにもならないのだが。