第二章 深奥に滲む

「──おや。昔嗅いだことのある匂いがすると思えば。あんたかい」

 落ち着いた女性の声。
 声の主である狼は、口の端を上げて言う。

「消えたと思っていたが、まだ死んじゃいなかったんだね──燠(おき)の」

 そう呼ぶのは一人しか。否──目の前の一頭しかいない。
 イドは歩み寄ってきた大狼を、旧知の友を立ち上がって迎え、蒼白い毛で覆われた頭を撫でて柔和に笑った。

「ニール……! 久しいな、ニール!」
「よしとくれ。あまり燥ぐんじゃないよ子供じゃあるまいし」

 老樹の森には土地守りの一族がいる。
 かつて人であったとされるその一族は古の名残を獣の喉頸(のどくび)に宿し、駆ければ疾風、吼えれば雷鳴、佇む姿は見た者に畏敬の念を抱かせる。
 蒼白い毛をもつ旧知の友はその末裔。
 白群守りのニール。それが彼女の名だ。

「元気そうで何よりだ、ニール」
「そう言うあんたもね」
「しかしまた何故ここに?」

 イドの記憶通りであれば、ニールは生活のほとんどを森の中で過ごしている。洞窟に入るのは雨季の間だけで、今はその期間ではないはずなのだが。
 ニールはため息混じりに答える。

「外は騒がしいから」

 納得するに十分な一言だった。
 大蜥蜴を駆る女の姿が脳裏によみがえる。しかし、ニールの言葉はそれを差してはいなかった。

「黒沼の国(ブランダルク)の本隊が森に入ったようだし、巻き込まれる前に洞窟(ここ)に来たのさ」

 大つばの帽子の女──確かミラベルは左の魔女と言っていたことをイドは思い出す。
 その魔女の襲撃と隣国の進軍。
 タイミングから見ても、二つが全く別の動きをしていると考える方が難しい。

「……始まるか。戦争が」

 地下通路へ逃げ込んだ時、大広間とそこに連なる廊下の崩壊はすでに著しかった。あの分では城が保たない。それに乗じて武器の貯蔵を押さえられれば白兵戦になったところで応戦するのはまず無理だ。

「不戦の契りは反故にされたか」
「何を今更。そんなものは大昔に無くなったよ」
「無くなった……?」

 反芻すると、ニールは呆れたように笑った。

「何がおかしい。それにニール、お前もお前だ。お前は土地守りの一族だろう。森の危機にこんな所で何をしている」
「そんなの私の勝手さ」
「勝手だと? それでも白群守りか」

 戸惑いと僅かに込み上げる憤りを言葉に乗せてイドはニールに語りかける。