三 男・託す

 家に挟まれた細い路地の半ばに、ロランの背があった。

 立ち尽くしたその膝が、くずおれて地面につく。

 同時、シルヴィにもロランと同じものが見えるようになる。

 幼い少年と、彼をかばう母親が。

 その二人に槍を突き立てた〈悪〉の姿が。

「ロ……ラン……」

 ゆるりと振り返った赤い目が、揺れる。

 理性と狂気が入り交じり、瞳の赤はなおさら色を鮮やかにする。

 そして、彼の──ロランの体は、〈悪〉のような硬質な黒に支配されつつあった。

「シルヴィ」

 ロランの声は、異様なまでに穏やかだった。

「約束、守ってくれるな?」

「……っ」

 吐き出そうとした息が、喉の奥でつかえて呼吸を乱す。

 シルヴィが固まっている間に、ロランの体の変化は進んでいく。

 肌の硬化に始まり、黒い髪が伸びて、赤い瞳の狂気が色を強める。

 その現象の名を、シルヴィはロラン自身から聞いていた。

 ──〈悪堕ち〉。

 誓いを破り破壊衝動に呑まれた〈悪使い〉は、〈悪〉よりも危険な存在になる、と。

 ロランが心に定めていた「自分の前で誰も〈悪〉に殺させない」という誓いは、たった今破られてしまったのだった。

 堕ちてしまった〈悪使い〉を、救うすべはない。

 殺すしかないのなら、殺すべきだった。今すぐに。まだ理性が残っている内に。

 ぎちぎちと音がしそうなくらいに、ぎこちなくロランの顔が前を向く。その先では、親子の死体をめった刺しにした〈悪〉がこちらを振り返っていた。

 今しか、ない。そう思えば思うほど、シルヴィの体は頑なに動かなかった。

 動け、という意思も、本心から発しているか怪しい。

 ぐらぐらと揺れる視界で、血にまみれた槍を持った〈悪〉がロランへ槍を向ける。膝をついたまま、完全に肌を黒化させたロランは──次の瞬間、シルヴィのまたたきの間に、消えた。

 四肢をすべて使った、獣のような加速。そのまま〈悪〉の首を掴んだロランは、〈悪堕ち〉は、建物へ叩きつけて壁ごと粉砕、屋内へ突入する。

 次いで、悲鳴。

 家屋に逃げ込んでいただろう住人の声が、あがる。ほとんど断末魔のような声で、しかし顔と名前を思い浮かべるには十分すぎた。

 暗く、闇に沈んでいた屋内に、明かりが灯る。部屋を照らしていた炎が破壊された家財に燃え移り、その勢力を徐々に広げていく。

 また、破壊音と悲鳴。狂った〈悪堕ち〉が、村中を蹂躙するまで、さほど時間はかからないだろう。

 シルヴィは、力の抜けた手を握りしめる。

「彼」を殺すのは、自分の役目で、誓いだ。

 真っ赤な炎と夕日が、真っ黒な炭と影が、シルヴィの目にいやに焼き付いていた。