一 船・進む

 一人海ばかり見て退屈していたのだろう。見張りの交代時くらいは、多少の「休憩」が許されているのが、船の上での暗黙の了解らしかった。

 だから、シルヴィもそれに則る。

「悪くない。……が、見渡す限り青ばかりで、目がおかしくなりそうだな」

「次の交代まで、ずっとその青いのを見続けるんだぜ」

「このときばかりは諦めるよ」

 そもそも、青いだけの景色は本来歓迎するべきものだ。航路を同じくする船と遭遇したとして、そのほとんどはライバルとなる船で、そうでなければ海賊船なのだから。

 荒事など、商売で海を渡る船乗りからすればコストでしかない。戦地に身を置き続けてきたシルヴィは、体がなまってしまうのを心配するべきところまで来ていた。

 シルヴィのため息を読み違えたのか、男ははにかみながら下を指さす。

「飽きたら下を見て手を振ってやんな」

「?」

「なんだ、気付いてないのか? お嬢さん、海の男どもから大人気だぜ。安全な航海をもたらす美しき女戦士、ってな!」

 若干興奮ぎみに話す男は、幾度かシルヴィが撃退した海賊船の話をしているらしい。

 半分疑ったまま、冗談に乗るような気持ちでシルヴィは下を覗き込み、手を振る。丁度、数人で固まった集団がこちらを見上げていて、彼らがシルヴィに気付いたのをきっかけに甲板の上をどよめきが感染していく。

 慌てて手を引っ込めたシルヴィの隣で、男が笑う。下方からは、からかうように「そろそろ休憩は終わりだぞ!」という声が飛んできた。

 至極残念そうに、男は見張り台の手すりを飛び越え、縄はしごに足を引っかける。

「じゃ、またあとでな」

 そう言い残したと思えば、するするとはしごを降りていった男はすぐに甲板へ辿りついてしまった。待ち構えていた船乗りたちが、見張りに立っていた男の体に軽く拳を入れているのが見える。

 あれは見張りへのねぎらい、なのだろうか。内心で首を傾げながら、シルヴィは遠く──水平線へ目を向ける。

 相変わらず、青ばかりが視界を埋め尽くしている。つい数日前まで、シルヴィの前に立ち塞がり続け、記憶に強く刻まれた赤と黒の世界は、どこにもない。

 持ちあがった手が額の傷に触れた。

 影が立ったような、それでいて瞳だけ真っ赤に輝いた男の姿が、まぶたの裏にまたたいた。

 違う、とシルヴィは首を振る。

 彼は、ロランは、あれではない。

 少なくとも、たった数日の記憶に上書きされていい存在では、ない。

 シルヴィは青い景色に目を向けたまま、過去の記憶に意識を向けていく。

 赤と黒に染められる前。

 まだなにも失っていない頃の、記憶へ。