第三章 信仰の道


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 ルジストルの国境の町についたのは、ちょうど日が沈むころだった。

 クローディアは「エル・プリエールの街道で保護された巫女見習い」として、将校用の休憩室を貸し与えられた。二つ並んだベッドの片方には、すでにグレンが寝かされている。

 西側、ルジストルの国内を向いた窓からは、少し離れたところに町明かりが見えた。国境の砦と住宅街の間には、牧草地と畑が広がっている──と教えてくれたのは、クローディアをこの部屋に案内したティムだ。

 部屋の明かりは、クローディアの手元の燭台のみ。月はまだ東の空にあり、壁のろうそくには火が灯っていない。

 調度品が整えられた部屋にいるだけでも、山の神殿で暮らしていたクローディアにとっては贅沢が過ぎる。ましてや、夜でも明るさを保つなど。

「……遠くまで来ちゃったな」

 窓にはめられた木枠を撫で、クローディアはぽつりと声を漏らす。

 馬車で半日の行程を経て、ついに国境の地に立ってしまった。これからどうしよう、と考え始めてしまう頭をぶんぶんと振って、クローディアは窓から離れた。

 グレンの眠るベッドのサイドテーブルに燭台を移動させ、眠る顔をうかがう。呼吸は変わらず安定しているし、顔色もいい。ただ、額に手を当て、髪を撫でてみても反応がないだけだ。

「明日には、起きてくれるよね……?」

 その問いがグレンに向いているのか、それとも自分自身に向いたものなのか、区別はつかない。

 グレンの体にあざが現れ、我を失ってしまったのは、今日が初めてではない。頻度こそ高くはないものの、負の感情にのまれたグレンをクローディアは何度か見てきたし、そのたびに治してきた。

 しかし、アルミュールでの出来事は、これまでと比べ物にならないくらいに酷かった。クローディアはグレンのそばを離れ、軍と軍の闘争のただなかに孤立させてしまった。

 それがどのように影響するのか──クローディアは知らない。

 大丈夫、と口に出すのは、不安をグレンに伝えないためだ。

 クローディアはもう一度頭を振り、かがんでいた腰を起こして伸びをする。グレンのことは心配だが、クローディア自身も休息はとらなければならない。

 ろうそくの灯を頼りに、空いたベッドの毛布を広げる。と、廊下の方でごとりと物音がした。

 クローディアが息を詰めて様子をうかがうと、かすかに人の話す声が。ベッドの足元にたたんでいたケープを羽織り、フードを被ってから燭台を持って扉に近付くころには、離れていく小さな足音と遠く扉の開閉音がした。

 恐る恐る扉に手をかけ、ノブを回して引くと、廊下のすぐ近くに別の明かりがあった。

「クローディア」

 ひんやりとした空気と共に、落ち着いた声。名前を呼ばれ、クローディアはノブを握る手に力を込めた。

「……ルシアン?」

 クローディアが思っていたよりも低いところで、金髪が揺れる。

 ルシアンは廊下に置かれた椅子に座っていて、その奥には小さな机と燭台が見える。インクの匂いがしてクローディアがさらに扉を開けば、ルシアンの体の陰にはインク壷と紙の束があった。

 右手に持っていたペンを置き、ルシアンはクローディアに顔を向ける。

「すみません、起こしてしまいましたか?」

「いえ、これから寝ようとしたところで」

 そこまで言って、クローディアは部屋の前に見張りを立てると聞いたことを思い出した。

 たとえ巫女見習いという扱いであっても、異国人である以上、国境の町では見張りを立てておいた方が怪しまれない──という話で、それも夜間に限られるとのことだった。

 ルシアンは昼と変わらず腰に剣を帯びてはいるものの、他に見張りらしい人影もない。クローディアが思っていたよりも物々しい見張りではなさそうだ。

「この基地の指揮官と話はつけてあります。あなたの部屋に、事情を知らない者は入れませんよ。──今は、そのままでいてくださると安心ですが」

 クローディアのフードに目を向け、声をひそめてルシアンが付け足した後、遠くかすかに人の足音が聞こえた。巡回、だろうか。階下から聞こえていると思しき足音は、暗い廊下であっても乱れも迷いもない。

「やっぱり、人には見られない方が……?」

「一応、ここも国境の町ですから。異国人への風当たりがいいとは言えません。神話を保管し、世に残す国としては心苦しいことですが……エル・プリエールの神官と巫女は、聖職者であると同時に政治家でもあるのが難しいところです」

 細い吐息は、ため息のようにも聞こえた。

「愚痴のようになりましたね、申し訳ありません」

「そんな。……私こそ、負担ばかりかけてしまって」

「それではお互い様ということで」

 言って、ルシアンは口の端を上げる。

 信仰されることを恐れているのを見抜かれているようで、クローディアはこそばゆさを覚える。ただ、この気遣いすら不要だと言っても、相手を困らせるだけだということは目に見えていた。

 ──それすらも許してくれそうだと感じるのが、クローディアにとっても不思議だった。

 出会ってから半日、警戒心を緩めたつもりはない。つもりはないのだが、いつの間にか神としての弱さすら見せてしまっている。

 気を許し、根拠もないのに信用してしまう明確な理由に、心当たりはない。

「……クローディア、そろそろ部屋にお戻りください」

 ルシアンが声をひそめて言ったころには、廊下の奥に揺れる明かりが見えていた。いつの間にか靴音も随分近付いていて、追われる身でもないのにクローディアは緊張を体に走らせる。

「では、先に休ませてもらいます。ルシアンも、あまり無理はしないで」

「私にはまだ仕事がありますので」

 そう言って、ルシアンはペンと紙の束を取って揺らして見せる。

 クローディアの見る限り、深刻さはない。むしろ、今までペンを置いたままにしていたのだから、クローディアの隣では進められない仕事なのだろう。

 頭を部屋に引っ込め、扉を閉める最中、クローディアは思い出したように口を開く。

「……おやすみなさい」

 机に向き直り、書き物の準備をしていたらしいルシアンの背がぴたりと固まる。

 それもわずかな間だけで、顔だけ振り返った表情に変化はない。

「おやすみなさい、クローディア」

 返事に笑みを返して、クローディアは今度こそ扉を閉める。

 家族以外に眠る前の挨拶をしたのは、これが初めてだった。