第三章 信仰の道
それに合わせ、クローディアも御者台に乗り出していた体を戻す。馬車の揺れに体を振られ、足元に眠るグレンにブーツの爪先が当たってしまったが、目覚める気配はまるでない。
ちくり、と痛んだ胸には後悔ばかりが渦巻いている。自分がグレンと離れなければ、頑丈な町だからと油断しなければ、詰所の門番を説得できていれば。
もっとはやく、決断していれば。
どうにか振り切ったはずの後悔が、また戻っている──いや、最初から振り切れてなどいなかったのだ。
クローディアはまだ、救世の神としてなにも成してはいない。
それなのに、人の信仰ばかりが積み重なってくる。
「さっきの言葉は……どのくらい知られているんでしょう」
何気なく呟いたはずの言葉は、かすかに震えていた。
なぜ、と自らに問うまでもない。
「クローディア様? 大丈夫っすか」
信仰されることが恐ろしい──。
ちらりと振り返ったティムとも目を合わせられず、クローディアは視線を足元へ向けた。
その間際、ルシアンがティムへ掌を向けているのが見える。川のせせらぎはおろか、馬の足音や車輪の軋む音すら遠のいていきそうな緊張に、クローディアはフードの陰で目を閉じた。
誰のものかも分からない細い呼吸音だけが、いやに大きく聞こえた。呆れられてしまっただろうか、と不安を感じるのも、今のクローディアにはおこがましいことのように思える。
「神話の時代が終わってから千年の間に、多くの地域で神話が散逸してしまいました」
ルシアンの声がして、クローディアは薄く目を開く。
「それがどの程度であるか、調査が行われたことはありません。しかし、完全な形で神話を保管している国は、神がそれを目的としてお造りになったルジストルのみと思われています」
「────っ」
「先の言葉であれば、神から人へ残されたものとして伝わっている可能性がありますが……十二年前にルジストルの神話学者が発表し、王家が発信した邪神の復活は事実として認められませんでした」
クローディアが思わず顔を上げると、話す内容に反してルシアンの横顔は穏やかだった。
とはいえ、諦めているようには見えない。すでに事実として受け止めた事柄を、ただ説明しているだけの冷静さだった。
だが──その事実は、ルジストルの孤立を表している。
邪神が他国の中枢に関わっているとしても、そうでなかったとしても。
「……じゃあルジストルがエル・プリエールに軍を派遣してるのは」
「フリーデンの中枢に邪神が関与していると考えているからです。まだ予測の域は出ていませんが」
沈黙を挟んで、ルシアンはクローディアへ視線を向ける。
その目がわずかに見開かれるのを見て、クローディアは自分の頬に指を当てた。
「そんなに悲観的な顔をなさらないでください。あなたと出会えたこと自体、我々にとっては幸運なのですから」
「でも……私まだ神のようなことはなにも」
「世界を憂い、人のために悩んでいるのなら、それだけで充分です。行動は、あなたの憂いが一つ減ってからでも遅くはありません」
クローディアの肩から力が抜ける。
不思議とすんなり入り込んでくる言葉だった。後悔や不安で狭まっていた視野に、光が差したようにも思える。
「心の慰めにはなりましたか、クローディア」
ルシアンが敬称を除いたのは、クローディアの抱える後ろめたさを見抜いたからか。
「……お気遣い、ありがとうございます」
いずれにせよ、クローディアはこれからもグレンと行動を共にする。一人で悩み、後悔を重ねるばかりではいられない。
これからのことを二人で決めていくために、まず必要なのは充分な休息がとれる場所だった。