第三章 終末にはまだ早いと精霊魔術師は云う

 四方に散らばる骸骨たちを追い抜き、リッキーは疾る。

 だけれど、何かを差し出し何かを得るのは、ただの傲慢なのではないだろうか。根本的な解決には結びついていないのではないだろうか。

 この世には、等価交換なるものがある。

 等しき価値のあるものを交え、換えるという理屈が──

 飛び掛かってくる骸骨を薙ぎ払い、殴り飛ばし、リッキーは奔る。

 しかしてその価値とは、何をもってして等価としているのか。

 価値観なんてものは人それぞれ違うものを持っている。違うものだから実際には等価ではない。等価を判定する絶対の存在がいるとすれば話は違うが、等価交換とは、無い物ねだりの末どうしても手に入れたいもののために、どうしようもなく対価を払うという、ある種、諦めの境地という内面を孕んでいるのだ。

 見方によっては妥協とも言える。

 リッキーは走って、走って、奔り抜ける!

 この状況下、カソックの男が爆撃の手を下さないのは、リッキーの足掻く姿が滑稽だと見下しているから。無駄な足掻きだと嘲笑しているから。

 リッキーは、思う。

 確かに自分は、破壊しかできないどうしようもない人間だ。ただただそうであると自身を蔑んで人里から離れた所に一人でいた。

 だがそれは、自分の勝手な思い込みなのではないだろうか。この力の使い道は、考えれば他にもいくらだってあったはずである。

 例えば惣菜屋の親父の店は、リッキーの腕力なしには数日の修復工事を強いられていたはずだ。

 要は、使いようでどうとでもなる。

 それが例え破壊しか生み出さなかった力であろうと、爆発を巻き起こす力であろうと、要らないから差しだす自分は、それでも自分自身だ。他の何者でもないし、どうしようが個人の勝手である。だけれど、そうだとしても、何もせずに諦め、違う何かを欲するというのは間違い以外の何物でもないのだから!