晴れのち雨:2.5

 天降甘乃(あめふり あまの)は長い夢から目を覚ました。

 夢。そう、夢だ。

 機械が人間に見せる夢。

 デュランダル・オンライン。

 頭に取りつけた専用ハードを取り外し、気だるい体をゆっくりと起こす。

 あまりに長い間ログインし続けていたせいで、自分の体を動かしているというのにひどく現実味がない。支給された長時間ログイン用ベッドの手触りも、部屋にこもった空気の匂いも。

 さっきまで脳に直接送られるデータを「感じて」いたのだから、ある意味当然ではあるのだが。

「……くさ」

 五感すべてにもやがかかっているようにすら思えるが、そのほとんどは不快信号だ。意識だけが清潔な電脳世界にいて、放置された体はきれいなままでいられない。

 空腹を訴える胃袋をねじ伏せて、天降は先にシャワーを済ませることを心に決めた。


     *


 デュランダル・オンラインを開発し、提供しているJabberwockyの本社ビル隣には、社員用の寮が併設されている。

 天降が住んでいるのはその一室で、部屋番号は四〇三。エレベーターを使うのも気が引けるような、階段を使うのもためらうような、それでいて角部屋でもない、中途半端を体現したような部屋番号だった。

 ワンルーム。ユニットバスとトイレ。小さなキッチン付き。

 クローゼットとテーブルと椅子は備え付け。ベッドだけはセミオーダーで、これは体にかかる負担を軽減し、ログイン時間を──つまりは業務可能時間を引き延ばすための措置だった。

 シャワーを浴びてすっきりした体で、天降はひとまず部屋の窓を開けた。

 さっき確認した時刻は二〇時一〇分。部屋の換気をするような時間ではないが、いつ現実世界に戻って来れるかも分からない生活では、昼間に換気ができるとも限らない。

 天降の職務はデュランダル・オンラインのエージェント。いわゆるオンライン・ゲームのゲームマスター業務だ。

 初心者向けのシティ・ギルド〈レイニー・デイ〉のアイテムショップNPCを装いながら、初心者のフォローをするだとか、違法アカウントを摘発することが主な仕事か。

 と言っても、一日甘味を売るだけで仕事が終わることの方が多いのだが。

「ふん」

 どうせアテにされてないのだ、と天降は荒々しくため息をついた。

 デュランダル・オンラインは、現実の身体能力をベースにしてキャラクターのスペックが決定される。天降の体は見るからに未発達で、日本人の平均身長に合わせて造られたベランダからは外を見ることも覚束ない。

 天降の年齢を聞くと、だいたいの人間が十歳前後と答える。実際、天降の容姿は少女のそれで、成人女性とは程遠い姿をしている。

 今年で十八歳になったというのに。あと二年で成人してしまうのに。

 だから、あと二年経つまでに、今の仕事を終える必要があった。

 毎日鏡を見ては絶望していた日々に、薄く光明が見えたあの瞬間を、天降は今でも覚えている。

『あなたが抱える問題を解決します。     Jabberwocky』

 うさん臭さしかないメールにすがってここまで来たのだ。

 仕事は続けるしかないし、可能な限りは役に立たなければならない。たとえアテにされてなかったとしても。

 夜の空気を吸い込んで、天降は窓を閉める。

 自由な時間は限られている。

 現在、デュランダル・オンライン内の〈レイニー・デイ〉ではシティ・ギルド限定のコード・リファレンスが発令中。

 アイテムショップNPCの天降甘乃が、コード・リファレンスに参加した〈レイニー・デイ〉の構成員に救出されるまでに、現実世界の天降甘乃はデュランダル・オンラインにログインする必要がある。

 その前に、生命活動に必要なことは済ませておく必要があった。

 ひとまずは、食事から。


     *


 Jabberwocky本社ビル。

 社食のフロアは、いつだって一定数の社員が席を埋めている。

 夕飯には遅すぎ、夜食には早すぎる時間であっても、それは変わらない。

 ただ、オンライン・ゲームのゴールデンタイムなだけあって、さすがに人数は少ない方だった。

 中央にある模造樹木の下で受付を済ませ、料理の並ぶバイキングコーナーへ。

 ……とはいえ、天降の身長ではどうにもならないので、いつものように麺類を頼む。並んだ料理をとるのが大変なら、一皿ずつ作られるものを頼めばいいのだ。

 待っている間に、長方形のトレイへ割り箸を一膳と小分けされた七味唐辛子を一掴み。

 しばらくして、注文したきつねうどんがトレイの上に乗せられた。その際、山盛りの七味を怪訝な目で見られたが、気のせいだと思うことにする。

 そもそも、夜遅くに天降が社食に現れること自体、怪訝そうな視線を向けられる時期もあったのだ。見た目が幼いのは、それだけでいろんなところに面倒が生じる。

 ともかく。

 料理の並んだエリアを抜け、大小、長短さまざまなテーブルが並ぶ場所まで進んで、とりあえず周りをぐるっと見渡す。

 テーブルの種類に合わせて椅子も様々。これだけの数をこれだけの種類集めるのは、金銭感覚的にどうなのだろうと思わなくもないが、そもそもビュッフェ形式の社食を二十四時間開いている時点でいろいろとおかしい。天降は考えるのをやめた。

 ──とりあえず低い椅子がいい。

 バカみたいに高いカウンター席から離れ、リラックス重視のソファが置かれた場所へ向かうと、一席だけすでに埋まったところがあった。

 後ろ頭しか見えないが、知り合いだった。

「ありゃ、高崎さん。現実世界(こっち)にいるなんて珍しい」

 先手を打って声をかけると、短髪頭が天降を振り返る。

 ひらりと左手だけで答えて、高崎はだらけた体を持ち上げて座りなおした。

 断りを入れることもなく、天降は対面のソファに座ってトレイをテーブルに置いた。高崎の前にも同じトレイと浅い皿があって、天降はパスタかなと適当に予想する。

 幼女みたいな見た目の天降と、短髪に髭を生やした高崎。傍から見るとメニューのセレクトがアンバランスだった。天降はひそかに笑う。

「ログアウト頻度はそっちより多いつもりだが」

 特に気を悪くする様子もなく、高崎は天降の「あいさつ」にそう応えた。

 天降は割り箸を割って、

「うーん? そうなの?」

「ゴールデンタイムは休憩時間と勝手に決めてる」

「へぇ、いいなぁ。いただきます」

 とりあえずひとくち、つゆをすすった。

 脳に直接叩き込まれるだけのデータとはいえ、甘味ばかり味わっていた舌にしょっぱい出汁はよくしみる。ぷは、と息をはいて、七味唐辛子を投入。

 一袋。

「でも、なんでゴールデンタイム? 取り締まり対象が増えそうなもんだけど」

 二袋。

「ビジター相手に時間は関係ないだろ。一般プレイヤーが多い時間にわざわざ相手をする理由もない」

 三袋。

「あぁ、確かに」

「大体、表面化は避けた方がいいことをやってんだから──おい」

 四袋。

「なに? あ、私はゴールデンタイムログアウトできないタイプだけど、コード・リファレンスで誘拐されてることになってるから問題ないよ」

 五袋。

「違う、そうじゃない。さすがに入れすぎだろう味が消えるぞ」

「いーじゃない。ログインしてる間ずーっとお菓子焼いてお菓子売ってお菓子食べてるんだから、辛いのとしょっぱいのを体が求めてんの!」

 六袋。

 げんなりした顔の高崎は無視。袋に残った欠片まで叩いて投入すると、天降はようやく七味唐辛子をうどんに盛る作業をやめた。

 箸でぐるぐるかき混ぜると、なんだか全体的に赤っぽくなったようにも見える。

「いや、ログイン中に菓子食う理由ないよな」

「毎日毎日周りに来るのは善良な初心者ちゃんばかりで、ゲームマスター業務としてヒマもいいとこだから! お菓子でも食べてないと暇が潰せないんだけど!」

 言葉で表せば表すほど、悲しいくらいに窓際っぽかった。

 やけくそ気味に言って、天降はきつねうどん(+七味唐辛子・小袋×六)を食べ始める。久しく感じていなかった辛味は、甘ったるくだらけていた脳細胞を活性化させる。……ような気がする。

 強すぎる辛さにむせることすらない天降を見ながら、高崎は呆れたようなため息をついた。

「……はぁ。エージェントにもいろいろあるんだな。今更だが」

「超エリート狩人さんと超窓際天降さんでは差が大きくなるのは当然じゃない」

「むくれるな、面倒くさい」

「むくれてない!」

「クソ駄犬みたいな返しを……」

 うどんを噛みきりながら「駄犬でもない!」と唸る天降に、高崎は追い払うような素振りで適当に応える。

 子供扱いだ、不当だ、と叫びたいところだったが、高崎からすれば天降は実際に子供である。当たり前のことを当たり前にしているだけと言われればそれまでだ。

 理不尽さを感じながら、天降は手早くきつねうどんを食べ進めていく。

 休憩時間──すなわち「天降が誘拐されている」コード・リファレンスの制限時間は三時間だ。

 初心者向けとしては高難易度に作っていると聞いているが、なにが起こってもおかしくないのがゲームの世界である。

 大体、〈レイニー・デイ〉は初心者向けギルドではあるが、所属期間の制限がない。やけに在籍期間が長いプレイヤーなら、天降も何人か記憶している。……脱退を忘れていた、という者の方が多いのが実情ではあるが。

 どんぶりの中のうどんが半分ほど減ったあたりで、高崎が思い出したように疑問を口に出してきた。

「そういや、天降はショップNPC業務も兼任してたよな」

「ノンプレイヤーじゃないけどね」

 まだむくれてるのか、という呟きは聞かなかったことにして、天降は七味唐辛子を一袋追加投入した。

「そもそも、頭おかしいでしょ。違反プレイヤー監視のためとはいえ、NPCのフリをゲームマスターにさせるとか。勤務時間考えて言ってんの? って感じ」

「そう言うお前は一日何時間勤務して…………あー、うん、言わなくていい」

「ちょっと!! 哀れみの視線向けるのやめてくんない!?」

「十代から社畜は辛いな」

「うるさい!!」

 怒涛の勢いで開封される七味唐辛子。

 さらに追加された五袋は、高崎が制止する間もなくきつねうどんを赤く染めていった。これで合計十二袋が投入され、トレイの上には空になった袋が屍のように積みあがる。

「別に青春真っ只中な時期のほとんどがオンライン・ゲームのしょーもない窓際業務に潰されてても悲しくないから!」

 天降は若干涙目だった。

「たまに喋る同僚が、付き合ったら犯罪になりそうなオッサンでも別に悲しくないし!」

「なんでこっちに飛び火してんだ」

「火に油注いだのがあんただからでしょ!」

 天降の見た目を考えると、付き合っても犯罪にならない相手は存在しないのだが。

 筋が通っているようないないような反撃をして、天降はさらに辛味を増したきつねうどんをすする。

 当然ながら、出汁の味はほとんどしなくなっていた。

「で、なんだっけ? NPC業務がなに?」

 心底どうでもよさそうに、天降は会話の軌道を修正。

 話を振ったはずの高崎すら、そういやそうだったなといった感じで数瞬考える素振りを見せ、

「……あー、そうそう。さっきのコード・リファレンス、クリア時間はちゃんと稼げるのか?」

「あぁ、それ。初めての試みらしいけど、そこそこの時間は稼げるでしょ。一応、初心者向けギルドだし……まぁ、何事も例外があるけど」

「例外?」

「長く在籍してるプレイヤーはいるってこと。他に入りたいギルドがなかったんじゃない?」

 かなり投げやりに言った天降に対し、高崎は若干硬い表情。

 それに気づいた天降は、丼を持ち上げかけていた手を止める。

「前に、ギルド限定装備が傘だって言ってたことあったよな?」

「え、うん」

「ビニール傘はあるか? 透明の、コンビニで売ってるような」

「はぁ? そんなダサいのデザインする奴いるの?」

「悠長に言ってる場合か。デザインしなくても勝手に出てくる武器があるだろうが」

 言って、高崎は短く嘆息。

「デュランダル」

「…………嘘でしょ。〈レイニー・デイ〉所属プレイヤーが非正規ルートからログインしてたら、さすがに私が気づいてる」

「正規ルートからログインしても、デュランダルを持つことはある。一般プレイヤーだからって理由にはならないんだよ。俺がそうだろう」

 固まる天降の懐で、スマートフォンが電子音を鳴らした。

 Jabberwockyから支給された、社員用端末。エージェント業務に関する緊急連絡の着信音だった。

 天降は慌てて端末を操作して、通話を開始。

「はい天降」

 短く言った天降に対し、通話相手は怒涛の勢いでまくしたてた。

『ウェーイ甘乃ちゃーん元気してるー? めっちゃ言いづらいんだけど今チョーヤバイこと発覚しててさー、マジテンションが上がっていいのか下がっていいのか分かんないカンジなんだよねー甘乃ちゃんどうする?』

 かなり頭の悪そうな、若い男の声だった。

 露骨に嫌そうな顔をする天降。スピーカーから漏れ聞こえる声で判断したらしい高崎は、何も言わずにこめかみを抑えていた。

 口の端を引きつらせながら、天降は一言。

「簡潔に」

『コード・リファレンスがクリアされるまで想定であと五分』

「はぁ?」

 慌てて食堂内の時計を確認すると、まだ二〇時四五分だった。

 天降がログアウトしたのが二〇時少し前。

「……アンタ、何時間休憩くれるって言ったっけ?」

『えーっと、五〇分?』

「三時間! って! 言ったでしょ!」

『無理でしたテヘペロりーんっ☆ しょーじきそこまで骨のあるプレイヤーいるとは思わなかったんだよねー。あ、でもアレだから、潜在ビジターとか見つけちゃったからマジで。プラマイゼロっしょ』

「労基法」

『聞こえまっせーん! とにかくエージェント・天降甘乃は今から五分以内デュランダル・オンラインにログインし、しかるのちに潜在ビジターと思しきプレイヤーと接触するよーに! プレイヤーの情報はリアルのスマホとゲーム内の携帯端末に送っとくよー。以上!』

 若い男は一方的に支持を送ってから電話を切った。

 天降は電子音を鳴らすだけになったスピーカーをしばし眺め、真っ赤になったきつねうどん(ほとんど七味唐辛子の味しかしない)に目を向ける。

「……高崎さん、これ食べる?」

「ふざけんな」

 七味唐辛子味のきつねうどんは、二分で天降の胃袋に流し込まれることになった。