レイニーデイ・ハント:1
触れることができそうな、どころか、重ささえ感じられそうな雲が空に広がっていた。
雨津(あまづ)の町は、こんな日にはひっそりと静まり返り、ただの住宅街もゴーストタウンのような様相を見せる。
カーテンどころかシャッターまで閉められた窓。人っ子ひとりいない路地。雲間からこぼれる薄明かりは、まだ夕日になる前の高さから注いでいるというのに頼りなく、弱い。
住宅の狭間で縮こまっている公園も、時間帯にしては少なすぎる人影に落ち込んでいるように見える。
片隅にたたずむ時計の針が、カチリと長針を進めた。
一五時五五分。
「……むう」
たった一つ残された小さな人影が、公園の片隅で不満げに呻いた。
レインコートと長靴、体格に合った小さな傘の、雨に対する完全防備。くっきりとした目鼻立ちの下で、口にくわえた白い棒が揺れる。
ベンチに寝転がった少女が操っているのは、一台の携帯端末だ。
画面にはプライベートチャットの吹き出しがいくつか並んでいる。
一番下に表示された最新の吹き出しは、ついさっき相手から送信されたものだった。
デイリーの約束、間に合わなさそう
ごめんー 15:54
時計や謝る人の絵文字が含まれた文面は、しかし送り主の「本質」ではないことを少女は知っている。
日本語に不慣れだった少女にも内容が伝わるように、無愛想な友人が編み出した絵文字活用法。「本来の絵文字の使い方のような気もするけどね」と苦笑していた友人の名前は赤色で表示され、彼女が「この世界」にいないことを示している。
バーチャルリアリティの技術を利用したオンラインゲーム、デュランダル・オンライン。
世界の全てがデータで構築されているにも関わらず、今にも雨が降りそうな重い空気は現実のそれと遜色ない。薄暗い景色の中に一人でいることの孤独感も、世界から取り残されたような恐怖心も。
不安に駆られ、少女の青い目がきょろきょろと周囲に向けられる。
整えられた生垣や、誰も遊んでいない遊具の影が、なぜだかひどく不気味に見える。
嫌な気分を振り払うように、少女はふるふると頭を振った。
そして、個人チャットの相手のことを思い浮かべる。
スマートフォンの持ち込みが禁止されている小学校で、こそこそと端末を操り、ゲームの専用アプリを開く友人の姿。
年下なのに頼りになるあの子が、教師やクラスメイトの目を盗んで校則違反をしている……なんて姿を見たことがあるわけではないのだが、想像するだけでも愉快な気持ちになることは間違いなかった。
くすくす笑いながら、少女はチャットルームに返事を投稿する。
わかった、ちょっとさびしいけど、がんばる 15:57
文面を考えるのに手間取って、友人と約束した「デイリー」までの残り時間が三分を切る。
少女がいる公園は、デュランダル・オンラインの初心者向けワールド・雨津に属している。よほどの、それこそ不具合レベルの設定ミスがなければ、強敵が現れることはない。
ましてや、デイリーと名のつくようなクエストだ。気を抜いてもいい、というほどではないが──町全体の雰囲気は別として──不安や緊張を感じるほどの難易度でもない。
あるのは、友達と一緒にゲームができない寂しさだけだ。
少女は端末を操ってチャットアプリケーションを終了し、自身のステータスを表示させる。
エレン、と書かれたプレイヤーネームの下に、全体的に控えめな数値が並んでいた。
デュランダル・オンラインのゲーム内ステータスは、おおむね現実の身体能力によって決定される。十二歳のエレンは、成長期こそ迎えているもののまだまだ未熟な体だ。
経験を積んでも自身のステータスに補正がかからないデュランダル・オンラインは、同年代の知り合いがプレイしているという話を聞いたことがない。
いわゆる「弱小」や「底辺」のプレイヤーになることがほとんど確定しているオンラインゲームをやりたいと思うような人は、ゲームの設定すら乗り越えて強くなりたいとかいう病的なゲーマーか、あるいは──
「……ん、中吉」
端末を持っていない方の手で、エレンは口にくわえた白い棒を取り出す。
口内に隠れていた先端には、かなり小さくなった紫色の飴がついていた。端末の画面内では、攻撃に関わるステータスの微増量が表示されている。
雨津だから「飴」、という安直なダジャレが浮かんでくるアイテムだったが、エレンとその友人がデュランダル・オンラインをプレイする理由はここにある。
ぱくり、と再び口に含んだ飴は、濃密なブドウ味を舌に広げていき、その甘みを頭までじんわりと浸透させる。その上、この甘みは単なるデータであるため、金銭や健康について両親にうるさく言及されることもない。
エレンにとって、「ゲームの時間」は「おやつの時間」にも等しい。
それだけ、デュランダル・オンラインで再現される甘みと幸福感は、現実と遜色がないのであった。
毎日きちんと「デイリークエスト」をこなすのも、もちろん消費アイテムである「おやつ」を調達するためである。
最後に時間を確認して、エレンは端末をレインコートのポケットに入れる。
柔らかくなった飴を名残惜しそうに噛み砕いている間に、公園の時計が針を進めた。
一六時。
上体を起こしたエレンは、白い棒を投げ捨てる。
ジャンク扱いとなった棒は放物線を描きながらぼろぼろと崩れて消え、代わりに雨粒が地面に落ちる。
これまでずっと溜めこんでいた、とでも言うように、空から降り注ぐ水は急激に勢いを増していく。
レインコートと傘で雨粒をしのぐエレンだったが、風に流れて来た雨粒と飛び散るしぶきは避けようがない。
露出した足や髪を濡らしながら、エレンは雨の公園を見つめる。
水はけの悪い土の上には、すでに水たまりができあがっている。生垣や街路樹のあちこちで雨粒に叩かれた葉が揺れ、枝がしなる。
雨と風の音だけが、雨津の街を包み込んでいる。
ただでさえ薄暗かった公園は、雨の中にあって夜のように暗く沈んでいた。
上から雨粒が降っているのか、あるいは地面で水たまりが弾けているのか──そんな疑問すら感じてしまうほどに絶え間なく振り続ける水滴が、公園の一角で不自然な動きを見せた。
重力に逆らうように、泥水が立ちあがる。
それは、冷たい水が地面に落ちて逆向きのつららになっていくのを、早回しにしているようだった。
雨を浴びてじわじわと成長していく泥水は、瞬く間にエレンの身の丈を越え、その質量を増していく。
丸みを帯びた扁平な頭部、ほとんど同じ太さを保つ首と胴体、太い尻尾、ずんぐりとした四足。
巨大なオオサンショウウオの形をとった泥水が、口を開け、はるかに小さいエレンに向かって威嚇の動きをとる。
声はない。「彼ら」は声帯を有していない。
エレンも黙したままベンチから立ちあがり、天に向かって開いていた傘を閉じる。
両者の沈黙を破ったのは、ポケットに入った携帯端末の機械音声だ。
『モノノケとの会敵を確認。──デイリークエスト「レイニーデイ・ハント」、開始します』
雨を受け止めるレインコートのフードを直し、エレンはくるくると傘を回した。
ぴたり、と止まった傘は、先端がまっすぐオオサンショウウオ──モノノケに向けられている。
それは剣か銃でも向けているような動きで、事実。
エレンの青い傘は、剣であり、銃であった。
*
心拍数、血圧上昇_
脳内特定物質の分泌を確認_
以上の点からマスターが戦闘状態にあると判断、闘争モードに移行中_
**********
バトル・アバタ―セットアップが完了しました_
闘争を開始します_
*
機械音声の宣言に続き、エレンが小さく口を開く。
「基本形態から銃形態へ」
声に応え、エレンの手の中にあった青い傘は、同じ色の拳銃へと姿を変える。
傘が小さな体にぴったりのサイズであったのと同じように、拳銃はエレンの掌に収まっている。
色と大きさこそ水鉄砲。
しかし、雨津固有のエネミー・モノノケに対して有効なダメージを与えることのできる武器。
『シティ・ギルド〈レイニー・デイ〉より交戦許可が下りました。構成員エレン・アリンガムは、即時モノノケ討伐を開始してください』
定型文を読みあげる機械音声を無視して、エレンはモノノケに向けて青い銃の引き金を絞る。
轟音の隙間から、アナウンスを締めくくる音声が聞こえてきた。
『それでは、よい雨の日を』