召喚

 女の息が、外気に晒され続けた首にかかる。マニキュアの剥げた手がすっと下に伝って、俺の心臓の位置で止まった。

「ここ、すごくドクドクしてる。背中からでもわかるわ」

 硬い指先がそこを円を描くようにしてなぞった。身体が触れるほどの距離にいるにも関わらず、女の体温は一向に伝わってこない。それでも、女の吐く熱を帯びた空気だけで、女が興奮しているのがわかった。

 俺は後ろを振り返らず、女が今どんな表情をしているのかを想像した。

 きっと、ろくでもない顔をしてるに決まっている。

「痛い? ここ」

 今度はその指が、俺の左腿へと滑った。そこには銀色に光る食器用ナイフが突き刺さっていて、俺の心臓の鼓動に合わせて血があふれ出していた。生白い手を深紅に染めて、女が耳元でくすくす笑っている。

 女の異様に長い舌が、俺の耳朶を舐めた。

「”グール”(食人鬼)を呼び出しちゃうなんて、貴方も馬鹿ね。こうなることなんて予測がついたでしょう?」

 そのまま爪が足の付け根に食い込んでいく。俺は痛みに顔をしかめながら、こうしてマニキュアが剥げたんだなと漠然と思った。

「ところで、レディをこんな真っ暗な墓地に呼びつけたくらいなんだから、何か理由があるんでしょ?」

 女はじらすように、後ろから俺を抱きしめて、着ていた白いシャツに血を塗りつけている。

「……死体を探してる。お前らの主な食料は屍だろ? だから匂いで追わせて、ついでに骨ごと食ってもらえりゃ報酬にもなるし一石二鳥、と思って」

「あら、とてもいいアイデアだったわ。その死体が出ると、貴方にとって不利なことになるのね」

「ああ、だって…………」

 振り向きざま、女の頭部を掴んで後ろに押し込んだ。何の抵抗もなくぴきぴきと肉の裂ける音がして、女の驚きを張り付かせた顔が180度折れ曲がる。最後に頚椎が割れて、頭蓋骨や脳や眼球をそのままに地面にごとりと落ちた。真っ黒な液体が脳髄と一緒に流れ出し、崩れた女の体と俺の足元を汚していく。

「だって、怒られちまうからな」

 ナイフを左足から引き抜いて振り下ろす。黒い液体の中心に刺さり、出てくるのは脳髄だけになった。

「この靴お気に入りだったのに」

 新しいのを買いにいかなければ。また仕事が増えて、嫌になる一方だ。

 背後に気配を感じて、俺は顔も向けずに手を振った。

「お前、今度は何呼んだんだ」

「グール」

「で、どうだった」

「ただのお馬鹿さんだったよ。人間と天使の区別すりゃつかねえ、な」

 俺は左足の傷が完全に塞がったのを確認して、墓の陰に立っている同胞にため息を吐いてやった。相変わらず「天使」に相応しくないプロレスラーのような体格をしている。

「で、グールも駄目となりゃ次はどうする。お前にお熱な総勢34体のサキュバスに餌ばら撒いて探させるか?」

「勘弁してくれ。堕天するどころか俺の息子が使いもんにならなくなる」

「じゃあハウンド」

「悪魔に貸してくれって頼むのか? それこそコストオーバーだろ」

 二人して首を竦めた。うなじの辺りにまだ女の息が纏わりついているような気がして、後で聖水を浴びようと心に誓った。

「それにしても”親父”も面倒な仕事押し付けるなってんだよ。『昔の女の死体を処分しろ』だなんて。お前の恋愛事情なんか知るかっての」

「地道に探すか? 二人で」

「勘弁してくれ。男二人で墓掘り起こしまくって何が楽しいんだよ」

「美人だったら生き返らせる」

「じゃあその時だけ呼んでくれ」

 ただの肉の塊になった女を踏みつけ、次に何を呼び出そうか思案しながら、その場から離れるために羽を広げる。

「ん? あれ。天使総動員したらいいんじゃね? 一瞬だろ」

「お前……。その手があったか」