仮面の女

 よれよれのスーツを着た背中を、思い切り突き飛ばしたかった。

 信号待ち。その最中のことだ。

 別に、ちょっと歩みを止められた程度のことで、すぐにイライラする性質なんて持ち合わせていない。それなりに気分のいい天気だし、目覚めも悪くはなかった。

 かといって、目の前の冴えない男に恨みがあるわけでもない。くたびれた背広は、いわば背景と同じだ。いつも変わらずそこにある景色。建物や看板、電柱や街灯と同じように、ただそこにある他人。

 ──いつものことだった。

 大通りの信号待ちで、ちっぽけな人間なんか簡単にひき潰せるような大型車が通るたびに、誰かを突き飛ばしたくなるのは。

 一体、どうなるんだろう。突き飛ばした感覚の残る手で、飛び散った血肉を受け止めることもあるのだろうか。甲高いブレーキ音のなかで、骨と肉が潰れる音はここまで届くのだろうか。周りの反応はどうだろう? 不幸な事故が起こった後、私がとるべき行動は?

 鮮烈さを増していく想像に、私は右手を握りしめる。そうでもしないと、本当に背中を押してしまいそうだ。

 信号が変わり、車が停止線で止まっていくのを見て、少し安心する。こんなところで下らない余罪を重ねていくわけにはいかない。

 青信号に進行を許可され、私は白線で彩られた車道を渡る。のろのろと進むくたびれたスーツを追い抜き、三本の路地を無視して四本目の横道へ入った。

 そこから先は、わざわざ口頭で説明するのも、地図に書いて教えるのも面倒な道順の連続だ。入り組んだ裏通りを右に左に、時には崩壊した建物を越えるために階段を使って目的地へ向かう。

 用途の分からないガラス瓶や陶器が並ぶ、うさんくさいアンティークショップまで辿りつけばもうすぐだ。建物に沿うように作られた地下への階段を降り、樫材の扉を開けると別世界のような空間が広がっている。

 間接照明で照らされた廊下は、鮮やかな絵画で彩られていた。足元には毛の長いじゅうたん。左右の壁にはいくつかの扉があるが、正面はそのまま広々とした空間に繋がっている。

 ぽふ、ぽふ、と、踏んでいるのかどうかも危うい感覚の上を、私は歩く。谷にかけられた吊り橋の方が、まだ安定感のある感触を返してくれるだろう。

「誰か、いる?」

 問いながら、広間へ顔を出す。

 廊下に負けず劣らず華美な空間を照らすのは、天井から吊り下げられたシャンデリアだ。壁にはやはり絵画、そこかしこに置かれた花瓶にはいつも新鮮な花が刺されている。置かれている家具もおそらく一級品で、素材から細部の装飾から、無駄な部分まで無駄に作りこまれた貴族趣味を形にしたようなシロモノばかりだ。

 裏通りの地下にありながら、全盛期の王族貴族が好みそうなものばかりを置いている。ようは、この部屋の持ち主は変人なのだ。そんな人間と付き合う私も、なかなかのものだろうが。

「おや。はやかったね、レディ」

 芝居がかった口調は、残念ながらこの部屋の主にとてもふさわしいものだった。

 彼の変人度合いを知ると、誰もが同情を禁じえない。ひとことで表現するならば、現実がまるで見えていないのだ。

 地下室を王宮のように改造するのも、現代の基準でいえばバカみたいな口調も、毎日オーダーメイドの正装を崩さないのも、四六時中顔の半分を仮面で覆っているのも、きちんと現実を見れば誰でも避けられることだ。もし仮に、致命的なまでに趣味の悪い──もとい、貴族趣味をこじらせた人間が実際にいたとしても、こんな奇行に走るものはいまい。

「予定よりも一五分はやく、予想よりも一〇分はやい。そんなに私に会いたかったのかね?」

「……いつもどおり、自分の都合によさそうな頭でうらやましい限り」

 ため息まじりに応えると、ソファに腰かけた男は白手袋で自らのとなりを指した。

 勧めを無視し、向かいの席に座る。あらわになっている口元だけが、なぜか悲しげにゆがんだ。

「二人きりなんだから、恥ずかしがらなくていいんだよ。素直になりたまえ」

「私にお茶も仮面もくれないんだったら、ジェントルに会う理由がないの」

「……君に仮面を『貸す』契約にしておいてよかったよ。君のものになっていたら、この町にとんでもない事件を呼び込むところだった」

 私にとっては面倒極まりないことだ。誰かと組んで行動しなければならないなんて。

 しかも、その「誰か」が一生関わりたくないレベルの変人だなんて。

「なに言ってるの? あなたがこの町に存在している時点で、事件はすでに発生してる」

「私がなにかしたっていうのかね」

「存在が罪」

 素直に感想を述べると、男はしばらく固まったあとに両手で頭を抱えてうなだれた。

 仮面のせいで表情が読みにくいことこの上ないが、それ以外でアピールされる感情表現はかなり分かりやすい部類に入る。ただし、どうでもいい方向にのみ。

「少し酷くないかね……?」

「素直になったつもりなんだけど」

 そっけなく言ってみせると、私と男の間に挟まったローテーブルに白磁のティーカップが二つ並べられた。上から注がれる琥珀色の液体をたどると、カップと同じ意匠を施されたポットが。その取っ手に絡まっているのは、滑らかな黒布だった。

 見えない小人が仮面とローブを身に着けているような格好で、仮面と黒布だけがふわふわと浮いていた。かいがいしく男の身の回りの世話をしている様子はけなげですらあるが、単に操られて使役されるだけの存在であることは事実だ。

 おそらく、いまこの瞬間に男が仮面を外せば、仮面と黒布は消え去って支えをなくしたティーポットがテーブルに落ちる。そんなイベントが発生したことなど、いまのところ一度もないのだが。

「ご注文の通り、紅茶と──これを」

 二つならんだカップの間に、数枚の紙束と仮面が差し出された。

 男がそれらをどこから取り出したか、など、考えるだけ無駄だ。彼は地下室に最盛期の王宮を再現する男で、同時に町の裏側にはびこる被迫害者──すなわち、魔法使いだ。

 彼らはマギカ・マフィアと呼ばれる集団をつくって自衛を試み、その勢力抗争と表世界からの可能な限りの隠匿を目指している。魔法という存在は知っているが、それがどんな原理によって働いているのかは分からない。脅威は感じるが対策を講じることができない状況に、表社会の人間を追い込むことに力を費やしている。

 もともと、魔法使いでもなんでもなかった私が、彼らの扱う魔法を理解させてもらえるわけはない。

 ただ、私と彼らの利害が一致したときに限り、彼らの魔法を都合良く貸してもらえるだけの関係だ。

「無茶はしないでくれたまえよ。それと、ターゲット以外は殺さないように。いいかね?」

「心がけておく」

 うわの空で返事をして、紙面に目を落とす。隠し撮りらしき顔写真とプロフィール。何の変哲もない権力抗争の相手と、裏側に近づこうと四苦八苦している一般人。その二名だった。

「……少ない」

「言っておくが、私は穏健派だからね。殺し屋を雇うなんてことはしたくないんだ」

「だからって、人を使い魔みたいにするのがいいとは思えないけど」

 咎めながら口元で笑い、渡された仮面を身に着ける。

 視界が急激に狭まった。上下左右を遮る影に阻まれ、目の前に座る男に視線が注目する。それと同時、私の体をゆったりとした黒ローブが覆い隠した。給仕をする使い魔と同じ装束だが、私には体があり、自我がある。

 少し力を借りるだけだ。

 それで私の欲求が満たされるなら、これほどいい仕事はない。

 紅茶を口へ運ぶ。芳香がふわりと呼吸器を通り、温かい液体は使い魔じみた格好の私に体温を与えてくれる。

「……ひとつだけ、聞いてくれる? ジェントル」

「なんだい?」

 クールを装いながら身を乗り出す男に、私は可能な限り冷たく返した。

「私、ダージリンよりアールグレイのほうが好きなの」