原罪

「おいおいおいおい、女の顔見て逃げ出すとは、エデンの紳士は失礼極まりないなあ?」

 そう言って笑う女を前に、西明栄二(さいみょう えいじ)は今度こそ立ち止まるしかなかった。

 へたり込みそうになる足を支えているのは、わずかに残った気力と矜持。それだけでは足りないのは目に見えていて、長距離を走ったわけでもないのに膝はがくがくと震えている。

 「女の顔見て逃げ出す」? 冗談じゃない。

 目の前に立つ存在は、女どころか人間の域を軽く超えていた。

 と言っても、見た目の問題ではない。嘲りの表情を浮かべてはいるものの、顔の造形は整っている。黙って微笑でも浮かべていれば、へたに上品ぶっている女よりも好ましい印象を与えてくれるだろう。

 起伏のない体だって、言いかえればネコ科の肉食獣を思わせる野性味に溢れている。挑発的に胸元を開いたワイシャツの下には黒いビキニ。裾の広がったブーツカットのジーンズから、踵の高さ目測五センチの赤いパンプスが覗いていて──

 その直下、右足のヒールを中心にしてアスファルトが陥没、ひび割れを起こしていた。

 逃げた西明の前に立ちふさがるようにして、女の顔をした化け物が着地したときに生じたクレーターだ。

「私は別に、あんたのことを頭から食ったりはしないんだ。ただ、下界に慣れてない人間を、ちょっと案内してやろうと思っただけじゃないか」

 呆れるような、嘲笑うような口調で、女は言う。

 恩着せがましい言葉選びに西明のこめかみがヒクつくが、何も言い返すことができない。土地勘がないのは事実であって、案内がなければ避けられない危険がここにはある。

 しかし、だからといって、この人間離れした女におとなしくついていけるかと言ったら話は別だ。危険度で言ったら変わりはない。

「いけません、ユリ」

 平坦な声が、女の方から聞こえてきた。

 男女の区別もつけられないような個性のない「平坦さ」は、機械音声じみてもいるが独特の不自然なイントネーションがない。

 さらに不可解なのは、その姿が見えないことと──どこから聞こえてきたのか、判別できないことだ。女の近くから聞こえてきたのは確かだが、その周囲に声の主らしき人の影がない。

「エデンでは、男が女をエスコートするのが一つのステータスなのです。それを、いきなりおとなしく女にエスコートされろ、など。聞くわけがないでしょう」

 まさか、と西明は体を震わせる。

 ついこないだまでエデンにいた身、彼の頭には下界の情報など極一部しか入っていない。そもそも、エデンにいて下界を直接見る機会などない。あるとしてもテレビ番組くらいだ。

 映っているものだって、パニック映画の代わりのような、人間をバケモノが蹂躙する映像か……あるいは、アクション映画代わりのような、バケモノ同士の戦いくらいのもの。

 であるにも関わらず、女に見覚えがある場合。西明がいま陥っている状況は、これ以上ないくらいに危険なものであると言えた。

「ん? あぁ、そうか。体裁か。まぁ、プライドは大切だからな」

 ばさり、と胸まである赤毛をかきあげる女のしぐさに、西明は確信する。

 会ってはいけないモノに会ってしまった、と。

「それなら──」

「けど──」

 平坦な声に対し、否定の言葉で女が返す。

 大仰に手を広げてみせる姿は、ステージの上に立つ役者の素振りに近い。

「ここはエデンじゃない」

 女が言葉を継いだ直後、三つの黒塊がその背後に突き刺さった。

 地面を揺るがす衝撃に、西明はついに腰を抜かす。アスファルトの上にへたり込み、悠然と微笑む女と、背後でうごめく黒を見つめ続けるしかない。

 突如襲来した黒は、無機物的な鈍い光を放っていた。にもかかわらず生物的な滑らかさで動き、やがて二足歩行の有翼山羊──悪魔の姿となって直立。人間のように発達した腕でアスファルトを叩き、陥没させ、その膂力を顕示する。

「〈エネミー〉襲来ですか。エデン降りの人間もいるというのに」

 平坦な声に伴い、女のまとったワイシャツの襟元から蛇が顔を覗かせた。体を覆うウロコのひとつひとつが別の色をしているらしく、モザイクのような複雑な模様が浮かびあがっている。

 西明の確信は、ついに確定してしまった。

 ──神の保護も管理も受けない下界には、蛇によってエデンから盗まれた〈禁断の果実〉を食らった人間がいるという。

 一つの〈知恵の実〉と、十二の〈生命の実〉。人ならざる力を得る彼らは、ただ一つ、蛇の思想──支配者たる神を倒すという考えに基づいて選別され、エデン陥落の機会を狙っている。

 対して神は〈エネミー〉と呼ばれる悪魔を創造し、その戦いをエデンの住人たちの娯楽として使っていた。その〈エネミー〉──西明自身は液晶越しにしか見たことのなかった存在──は、女の背後に佇んでいる。

 気づけば、周囲にはプロペラ付きの小型カメラがいくつも飛翔していた。しかし、その映像がエデンで流れていることにまで、西明は意識を向けられない。

 この場において、もっとも危険な位置にいるのは西明だ。

 神の意に反してエデンから降ろされた以上、〈エネミー〉は西明を敵として扱う。とはいえ、神への反逆をもくろむような人間に命を預けられるはずはない。加えて──

「神に見放された土地、下界へようこそ、ジェントル」

 赤毛の女は、〈エネミー〉三体に背を向けながら笑っていた。

 そのまま、振り返りざまにアスファルトを蹴って加速。髪とパンプスの赤が閃いた直後には、〈エネミー〉に命中した蹴りがその頭部を粉砕していた。

 人外と言うにもおこがましい速度で放たれたハイキックは、きれいに〈エネミー〉の頭だけを破壊する。一瞬で首なしになった二足の山羊は、鮮血の噴水を散らしながら崩れ落ちた。

 ヒールの音を響かせて、女が着地。降り注ぐ血の雨を浴びて、白いワイシャツが真紅に染まる。

 西明の脳裏に瞬くのは、エデンで見た同種の風景──画面に映る戦闘風景だ。

「……斬首姫(ルイゼット)」

 西明が呟いたときにはすでに、断頭台の異名を持つ女は次の標的へと足を振りあげていた。