死神の左手

 年甲斐もなく無茶をしすぎたかもしれない、と倉越氷室(くらこし ひむろ)は嘆息した。

 冷えた指で触ると、体から流れ出る血液ですら火のような熱さを持っているように感じる。刺されたのは脇腹。手で押さえた程度で止血できるような深さでもない。

 冷たいコンクリート壁から背中を引きはがす。ふらつきながらも氷室は、そのまま前へ進み、

「簡単に喰らってくれやがったなぁ?」

 不満げな声がかかって、氷室は足を止める。

 視線をあげると、廃ビルの殺風景な内装を見渡すことができた。広いオフィスでも入っていたのだろう。ワンフロアをぶちぬいた大きな空間に、数本の太い柱が立っている。今日は新月のため、差しこんでくる光は全て人工のそれだ。時折、離れた場所に立つデパートのネオンサインが赤い色を投げかけてくる。

 氷室から十数メートルほど離れた場所に、声の主である青年は佇んでいた。短く刈り込んだ黒髪に、浅黒い肌。ネオンサインなどなくとも赤く輝く光彩は、薄暗い中でも際立って目立つ。

 魔の領域に、足を踏み入れたものの眼だ。

 魔術師になる際には、後天的な光彩の変化を伴う。目の色は魔力の質によって、魔力の質は人の性質によって変化する。

 青年の赤目は、破壊と争いを好む性質を強く表していた。

「もう少し楽しませてくれるようなサービス精神ってのは、要求するだけ酷か?」

 首を傾げ、青年は笑う。

 携えた得物──巨大な刃を持つ槍は、その切っ先を血で濡らしていた。

 改めて見てみると、刺された本人ですら、生きているだけで幸運だと思えてしまうほどの凶器だった。長い柄だけならば通常の槍と変わらないのだが、その穂先があまりにも巨大すぎる。形だけならば剣の刀身にも似ているが、用途はどちらかといえば斧に近いものだろう。

 重量を考えれば、脊髄をへし折ることも難しくはないはずだ。

「悪いな、もっと浅く刺すつもりだったんだけどよぉ」

「……いえ、むしろ都合がいいので気にしないでください」

「あ?」

 氷室の返答に、青年は不可解そうに片眉をあげる。

 問いを連ねようとして、青年が口を開きかけると同時。

「傷口を焼かれはしないかと、不安でしたよ」

 氷室は、脇腹に当てていた手を宙にかざした。

 赤いネオンの光を浴びてなお、青く光る瞳が青年を見とめ、

「──《生命の灯は熱すぎる》」

 声に応え、風が吹き荒れた。

 言葉が詠唱の一部だと気付かれる前に、氷室は魔力によって風の流れを統率する。

 血濡れた左手を中心に、渦巻くように。

「《故に、呼吸を止めろ。鼓動を止めろ。生きることで熱が生じるならば、極限まで死に近づけ。抑制と停滞の先、死の淵を見ろ。死へと誘う手を制し、敵の首に指をかけろ》!」

 冷却された空気に、白が混ざりはじめる。

 氷の欠片を含んだ小規模な嵐が、フロア内に吹き荒れていた。空気中の水分が凍り、さらにコンクリート内に含まれる水が氷結して膨張。壁、床、天井、柱、場所を問わずひびが走る。

 最後には、氷室の流した血すらも凍り、掌から剥落して吹雪の中に朱が混じった。

 暴れ狂う嵐の中、氷室の詠唱が終わりを告げる。


「《死神リヤンの左手》!」


 同時、フロアを荒らしていた吹雪が、氷室の左腕に凝縮された。中に含まれる氷片が螺旋を描き、腕がそのまま騎乗槍の刃と化す。

 死神の手を携えながら、氷室の顔色は優れなかった。失血のせいか、あるいは死に近づくことを強要する「氷結」の魔法の影響か──むしろ、その両者である可能性が高いのだが、氷室が苦悶の表情を浮かべることもない。

 達観でもなく、厭世でもなく、自棄でもない。徹頭徹尾穏やかに、氷室は死へと突き進み、氷結魔法を行使する。

「っ……最初から、そうしてりゃあよかったのによ」

 背を震わせながらも歯を剥いて笑い、青年が得物を構える。

 先の吹雪によって冷やされているはずだが、青年の赤目が一際強く輝くと同時に、槍の先端、幅広の刃に刻まれた紋様から炎が放たれた。

 氷室と青年、二人の刃が互いに向きあい、赤と青の視線が交わる。

 一瞬の沈黙。そして、

「あなたを楽しませるほど、優しい魔道は進んでいないので」

「そんときは、俺が勝手に楽しむことに決めてんだよ」

 言葉を交わしたのち、両者は一息に距離を詰め、フロアの中心で氷と炎が炸裂。

 直後、経年劣化と重ねて急激な温度変化に晒された廃ビルは、半ばから折れるようにして崩壊した。