鏡の扉と悪魔の憂鬱

「《エデンには災いを、人には悪徳を。私は混沌と死を望み、扉を叩くもの》」


 鏡は、なにかを映しだすものだ。

 人は鏡に姿を映して身だしなみを整える。

 無理をすれば、自分の背中も見ることが可能。

 そんな風にして、主に自身の容姿を気にする際に使われる鏡ではあるが──

 用途の例外は、存在する。

「《我が意志を映し、灼熱の海より来たれ──ディアボロス!》」

 轟、と風が逆巻いた。

 竜巻の中に砂鉄を投げ込んだかのような黒い風が、一枚の鏡を中心にして暴れている。

 黒い竜巻の隣で狂気的に笑う黒ローブを睨みつけながら、魔法剣士はひそかに舌打ちした。

 間に合わなかった。

 簡潔に言えば、そういうことだった。

 天に向けられた鏡から、赤い手が生える。

 長い爪が数回空を掴み、鏡の縁に指をかける。

 ──鏡は、なにかを映しだすものだ。

 大抵は、ものの姿を。

 そして特別な鏡は、心を映しだす。

 心──人の願望を。

 つまりは、魔法を使う際に有効なアイテムなのだった。

「これで! これで私の望む世界ができあがる! ようやくだ!」

 黒ローブの声は裏返っていた。貴重なマジックアイテムである鏡を手に入れ、さらに念願であった悪魔の召喚にも成功したのだから、それも仕方のないことではある。

 が、しかし。問題はその動機と目的だ。

 ちょっと人生うまくいかないくらいで、世界滅ぼそうとするなよ。と魔法剣士は改めて思う。

 端的に言えば、

「めっちゃめんどくせぇ」

 そういうことだった。

 ぼやいている間に、ディアボロスはその体を完全に現していた。

 赤い体表は、爬虫類のうろこを思わせる質感。手と同様、足にもナイフのような爪が生えている。頭には二本の角、背中にはコウモリの翼、右手には三又の矛先を持つ槍。

 地獄の業火に生きる、赤き悪魔。

「ちくしょー、俺はエクソシストじゃねぇんだよ鏡を取り返せってお偉いさんに頼まれただけであって悪魔と戦うのは本職じゃねぇんだからなこのやろー。面倒事増やすな」

 魔法剣士のぼやきは止まるどころかむしろ加速した。

 すらりとレイピアを抜刀。

 続けて、腰のポーチから銀の杯を取り出す。

「ホントこれオーバーワークだよ……《聖なる杯と聖なる水の洗礼を受け、汝、悪を滅する剣たれ!》」

 唱えて杯を放ると、空だった杯から水があふれ出た。

 詠唱と象徴によって生まれた聖水が、レイピアの細い刀身を濡らす。

 落下した杯の音に反応するように、重低音がその場に響き渡った。

 鏡の周囲に発生していた竜巻が霧散する。

 ディアボロスの声か、と魔法剣士が理解するのに、時間を要するほどの大音声だった。くらり、と頭が揺れるのを感じつつ、苦笑する。

 報酬上げてもらわなきゃあ、割に合わない。

「《聖なる水は、邪なる存在へ罰を与える》!」

 詠唱。と同時、レイピアを横へ振るう。


 風切り音を伴う、鋭い斬撃。そこから、いくつもの氷の棘が放たれた。

 『聖水』が、悪魔を貫くつららに姿を変える。

 氷がディアボロスに達する前に、魔法剣士は地面を蹴る。彼我の距離はおよそ百メートル。つららを囮に使って一撃で決める。

 レイピアにしては大振りすぎる構えで、跳躍。

「《再度、洗礼を受けよ! 汝は悪魔を両断するもの!》」

 腕で氷を払ったディアボロスに向けて、詠唱を追加しながら振り下ろす。

 刹那、刀身が質量を増した。細いレイピアから一転、氷で作られた大剣となる。

 速度と質量は十分。狙いはディアボロスの脳天。

 いける、と魔法剣士が歯を剥いて笑った、その瞬間にディアボロスは後ろへ跳んだ。

 甲高い音が鳴り響く。

「…………ん?」

 嫌な予感がした。

 猛烈に嫌な予感がしたが、魔法剣士は目を反らすこともできなかった。

 となりでは黒ローブが呆け、前方にいるはずのディアボロスは音と同時に発生した煙に隠れて姿が見えない。


 魔法剣士の足元には、豪奢な飾りごと粉砕した鏡が転がっていた。

「報酬ぶっとんだぁあああああああああああああ!!」

 頭を抱える魔法剣士のかたわら、鏡を手に入れるために長い歳月をかけた黒ローブは失神して倒れ込んだ。



「宿をとるお金がありません」

 放置された樽に座って、腕と足を組んだ魔法剣士は堂々と言い放った。

 言葉を向けられているのは、赤毛ツインテールの幼女だ。

 御年百歳のディアボロス(♀)が、地獄との繋がりを断たれた結果がこの姿。鋭い牙はいまや愛らしい八重歯となり、二本の角はツインテールと化した。誘拐されてもおかしくない、萌え要素たっぷりの幼女である。

「この私を使い魔としてよろしくご利用してる割には、無駄に偉そうにしてるのね」

「まだ観賞以外のご利用をしてません! というか、向こうに戻るのに俺の力借りたいって言ったのお前じゃん。まぁ、黒ローブと俺の二択だったら技術も顔もいい俺を選ぶしかないけど」

「ロリコンじゃなければね」

「褒めるなよ」

 そんな感じで、通報されてもおかしくない魔法剣士は現在無一文である。

 すごい鏡を修復不可能な状態にしてしまったため、報酬うんぬんの以前に財布の中身がぶっとんだ。宿をとるどころか、今日の夕飯すら危ういところである。

「銀杯でも売ればいいじゃない。高いでしょ、アレ」


「いんやー、メッキだからめっちゃ安いよー」

「な……」

「ちなみにレイピアも中古だかんね。俺の使うマジックアイテムはことごとく安物だから全く金になりません!」

「なんでメッキのくせにしっかり効果発揮してるのよ!」

「褒めるなよ」

 なぜか得意げな魔法剣士にディアボロスは肩を怒らせるが、よくよく考えてみれば決して悪いことではない。

 安物のマジックアイテムで効果を発揮できるということは、魔法剣士にはそれなりの技術があるということである。ふざけた性格はしているが。

「ということは、普通の鏡でも地獄とつなげられるってこと?」

「ロリはそばに置いておきたいなーという願望が、俺の心を阻害して鏡に地獄への扉を開かせないのさ」

 ──良くも悪くも、鏡は何かを映しだすものだ。

 心の底からディアボロスの退去を望まなければ、地獄への扉は開かれない。

 希望を打ち砕かれたディアボロスに、魔法剣士はあっさりと。

「そんじゃ、俺に弟子入りして……」

 地上と地獄、二つの常識を無視して言い放った。

「自分で扉、開けちまえよ」