かみなり

「──っ!! あんの野郎!」

 ハンドルを握る甲斐崎(かいざき)がブレーキを一気に踏み込んで車体を停止させる。

 その反動で助手席に座る朱音(あかね)の身体がシートベルトに押さえつけられ、ガクンと前に大きく傾いだ。

「なに降りてんだよバカかテメエ! 一掃(パージ)が始まるんだぞ!」

 運転席から身を乗り出して怒鳴りつける甲斐崎の怒号の矛先は後方。トラック荷台の更に後ろに向けられていた。

 朱音がサイドミラーで様子を確認する。そこには先ほどまで荷台に乗っていたはずの青年の後ろ姿が。そしてその更に後方にはスーツを着た執行委員の姿が認められる。

 ディパーチャー。

 NHA委員会の一員にして行政に飼われた能力者の一人。チャイナタウンでの一幕の際、やっとの思いで追跡を振り払ったはずだったのだが……。

 ディパーチャーを視界に捉えた甲斐崎が目を剥いて声を張り上げる。

「フェイ! 早く乗れ!」

 瞬間、甲斐崎の顔の真横を紫電が駆けた。

 遅れて届く轟音。通り過ぎた雷光が地面に激突し、炸裂。塗り固められたアスファルトが吹き飛んだ。

 放電の砲台であるディパーチャーの突き出された右腕で雷光がバチリと弾ける。

 文字通り光速で発射された電撃。チャイナタウンの一角──南定門広場を崩壊させた力を再び目の辺りにし、嫌な汗が一気に噴き出し、甲斐崎の背中が悪寒で埋め尽くされた。

 同時に甲斐崎は理解する。

 何故、青年が──飛竜(フェイロン)が荷台から飛び降りたのか。


「先に行ってくださイ」


 背中越しに放たれるフェイの声。

 寸分のブレもなく、また、躊躇もない凛とした声だった。

 甲斐崎は奥歯が砕けてしまいそうになるほど歯を喰いしばってから乗り出した体を運転席に戻し、力任せにアクセルを踏みつけてトラックを発進させる。

「──!? 甲斐崎さん! フェイがまだ!」

 喚く朱音の声を聞きながらも、アクセルを踏み込む力を緩める事はできない。ルームミラーで確認する事ができるフェイの背中はどんどん小さくなっていく。

 先の電撃にあてられたか、触れもしないのに勝手に作動を始めたカーコンポからノイズ交じりにラジオが流れる。

『このままですと、あと三時間後には神馬市に台風が直撃します。外は風が強くなっており、大変危険です。お出かけの際は十分ご注意ください。では続いて現在の交通機関情報です。中央線は全線運休。ジオ・ラインはマニュアル運転に切り替えているため、運行に遅延が出ています。循環バスにつきましては──』

 南西の空が仄暗い。

 台風の直撃まで今しばらく時間はあるものの、強風域には入ってしまっている。

 チャイナタウンと隣接する市街地を結ぶ大橋ライト・ブリッジ。甲斐崎と朱音が乗り込んだトラックが疾走する連絡橋は、風に煽られ僅かに揺れていた。


   *


「置いてけぼりとは、君のお友達は酷い事をするねぇ」

 垂らした前髪の隙間から覗かせる目で遠ざかっていくトラックを追いながら、スーツの男は口角を吊り上げた。

「まあ、僕を足止めできるとしたら、君が一番可能性がある」

 そうだ。

 ディパーチャー・エージェントNo10・リブラ。

 黒髪、黒眼、黒スーツ。全身黒に覆われたこの長髪の男が操る電撃は、生体電流や静電気、伝導体など、電気を誘導しやすい物を優先して補足し炸裂する追尾性能がある。

 にも関わらず、甲斐崎に向けて放った電撃はギリギリのところで外れていた。

 リブラは感嘆のため息を吐きながらフェイに向けて言う。

「大したものだよ君の能力。まさか磁界を操って電撃の方向を誘導するとはね」

 南低門広場崩壊の時もそうだった。

 暴れ回る電撃を掻い潜り、狙いをズラし、最低限且つ最短のルートをフェイは作り出していた。

「でも、二度も上手くいくとは──限らないんだよねえ!!」

 瞬間、リブラの右腕で弾けていた雷光が爆発するように巨大化した。腕を覆っていただけの小さな雷光がリブラの周囲を支配する。
 それは、彼が今まで全力ではなかったという事を暗に示していた。
 再び右腕に収束されていく強大な電撃。
 先ほどまでの威力でさえも、フェイが操る磁力では抵抗に限界があったというのに。
 しかし、

「それがどうしタ」

 フェイは静かに言う。

 怒気を孕んだ静かな声で。腹の底から湧き上がってくる灼熱した感情を滾らせながら。阻むように道の真ん中で仁王立って。

 ──解せなイ。

 フェイの胸中で煮沸する感情は、ただそれだけだ。

 確かにチャイナタウンは、暫定的に作られた神馬市の片隅にある小さなコミュニティー、市政に存在を左右される矮小な街だ。それは否めない。

 ただ、何故、委員会の勝手な思想でパージされなければならない。慣れ親しんだ家を追われなければならない。

 なんの権利があって朱音を迫害している。城藤の血筋だからと言ういい加減な理由で彼女を拘束しようとしている。

 それについてディパーチャー・エージェント・リブラは、こう言っていた。

『城藤源一郎はバッド・アップル完成の手順に、自らのDNA情報の入力と適用を組み込んでいたようだね。だけど博士はもう死んだのさ。だったら、近似した情報を持った人間が必要だよね』

 ──それがどうしタ……。

 握り締めたフェイの拳が震える。

『まあ、自分の息子を進化学研究の被研体にしていたくらいのイカレた人間だったからねえ、あの博士は』

 ──それが、どうしたと言うんダ……!

 研究を進めるためならば彼女の意思は──城藤朱音と言う名の一人の女性の意思は蔑ろにしてもいいと言うのか。

 フェイは朱音に大恩がある。

 今から二十年前、母国から命辛々この神馬市に逃れてきた時、瀕死状態であったところを当時まだ幼い少女だった彼女に救われ、彼女が営む中華飯店で初めて人として生き、甲斐崎という無二の友人ができた。

 返そうと思っても、返す事のできない思いがある。

 返したくても、返しきれない想いがある。

 最早、雷そのものといっても過言ではないほど強大な光の塊を纏うリブラを相手に勝機などない。

 しかし勝ち敗けの問題ではない。

 勝利などどうでもいい。敗けてもかまわない。

 ただ、道を開けあの日に立てた誓いをへし折る事だけは、何があっても貴女を守ると胸に突き立てた墓標を打ち砕く事だけは──どれだけの有象無象があろうとも許されない。

 目を醒ませ。思考を止めるな。体温を最適化しろ。

 唐突に、強風に煽られる橋上に黒い粒子が漂い始めた。

 物理法則を無視してアスファルトから発生し空中を浮遊するそれは、まるで生きているかの様に蠢いてから曲線を形作り、いくつかの環状となって空中停滞を続ける。

 その現象を目の当たりにしたリブラは、円周運動を開始した黒い輪の中心にいるフェイを驚嘆しながら見つめていた。


「勘違いするナ。本気を出していなかったのは、お前だけではなイ」


   *


『強風に乗って雨雲・雷雲が流れ込んできています。これによりジオ・ラインの更なる混雑が予想されます。また、地上線はほぼ全線が────』

 ライト・ブリッジを駆け抜ける一台のトラック。

 高速走行に伴うステアリングの鋭敏化に細心の注意を払いつつハンドル操作する甲斐崎は、搭載したカーナビにちらりと目を向けてすぐに視線を前に戻した。

 ──まだ半分も来てねえのかよチクショウ!

 ライト・ブリッジの道程は約二・五キロメートル。

 車道の距離だけで言えば二キロだが、中間地点に橋の強度を保つための休憩所兼ターミナルがある。

「甲斐崎さん、今からでも遅くないです! 戻りましょう!」

 甲斐崎は首を横に振って答える。

「なんで! ……このままじゃフェイが……フェイが能力を使ったらどうなるか、甲斐崎さんだって分かってるでしょう!」

 そんな事は分かっている。フェイの事は、この二十年でよく分かっている。

 フェイは、二十年前から外見的な加齢が進んでいない。

 その理由は瀕死状態から脱するために施されたペースメーカー手術に起因している。

 数十種類のレアメタルとコモンメタルを掛け合わせて作られた特殊金属で製造された人工心臓は、本来人体に定められた鼓動限界のリミットがない。

 併せてフェイは能力者(アンノウン)だ。通常の人間とは細胞分裂回数すら違ってくる。

 出会った当時は大人と子供の関係であったが、時が経った現在では見た目だけで言えば同年代。

 そして彼が操る力は磁力。

 手術以降、フェイはペースメーカーに支障が出ないよう、意図的に磁力の出力を弱めていた。

 しかし、もしもその制御を解き、彼が全力でディパーチャーを撃破しようとしたら──

 不意に、窓の外を黒い粒子が流れていくのが見えた。線をなぞる様に流れていく粒子は、車の進行方向とは逆に向かっていく。

「甲斐崎さん!」

 連れ戻したくないわけがない。唯一無二の親友を見捨てる事ができるわけがない。だが甲斐崎はその親友に誓いを立てた。胸に墓標を突き立てた。──お前(フェイ)にもしもの事があっても城藤朱音は俺が護る、と。

 甲斐崎は奥歯を強く噛みしめた。

「喚くんじゃねえよ朱音! あいつが死ぬはずねえだろうが! 絶対あいつは追いかけてくる!」

 朱音に向けて、というよりは自分に言い聞かせるような口調だった。