「鏡よ鏡よ鏡さん。この世で一番美しいのは、あーたし」

『テメエじゃねーよバーカバーカ!』

 あ、口が滑った──と刹那的に後悔するも時すでに遅く、男の右顔面は、バリンという甲高い音と共に砕け散っていた。水鏡製の脳みそが破壊され記憶に空白の時間が生じるが、右顔面は時を巻き戻すように元へ戻り、一瞬で思考回路の修復を完了させた。

 どうやら、僅か前方を歩く甲冑女《滅竜姫リリィ・ドラドニクル》が放った裏拳が頭部をぶち抜いたらしい。

「口を慎みなさいな、ジニア。滅しちゃうぞ」

 後ろも振り返らず凛とした声で言い放つリリィ。首がようやく隠れる程度の長さの金髪と、彼女の肩から伸びた黒いマントが歩くたびにひらひら踊る。身体を覆う白銀の甲冑はタイトで、細い体の線がはっきりと浮き出ていた。

 こんな触ればぽっきりいっちまいそうな奴に壊されるなんて──解せない、と心の中で歯噛みするジニアだがそれも止む無し。

 リリィはその二つ名どおり、竜を滅する力を身に宿した人間だ。

 とある呪いにより《鋼纏いの竜》となってしまったジニアにとっては天敵以外の何者でもない。また、自分は、今や没落してはいるが一国の姫である彼女の護衛を国王に命じられた一介の騎士だ。元は付くが君主からの命に背く事は騎士の名折れ。国は亡ぼうとも誇りは死なない。

 滅竜姫と鋼纏いの竜。

 そんな二人は、嘆きの塔に向かって歩みを進める。

 国の復興のため、旧王国領土内に点在する主要都市を回っている二人は使えそうな人員の確保や敵対勢力の殲滅を目的に大陸を練り歩いている。その途中に立ち寄った港町で奇妙な噂を耳にした。

「鏡よ鏡よ鏡さん。この世で一番」

「またその件(くだり)やんのかよ……」

「この世で一番アホなのはジぃニア」

「こんのガキャァ……!」

 暴言吐けども暴力は振るわず。ジニアは握った拳を震わせ、歯ぎしりしながら怒りを抑え込む。

「ところでジニア、道ってこっちで合ってるのだよね?」

「あ? ん、たぶんな」

 煮え切らない回答。聞いたリリィは、しかしこちらに振り返るわけでもなく背中越しに言う。

「折れた塔は霧に包まれて、か」

 それは民間伝承に出てくる唄──鏡月閃(きょうげっせん)──の歌詞の一部。

 月が放つ光を遮るほどに巨大な塔は、母なる山の麓に聳え、満月の夜になると鏡のようになり、月光を跳ね返して金色に輝くのだと言う。

「なあ、その伝承が実話だって保証はあんのかよ?」

「さあ? でも、古い地図の上では確かに存在するのだよね。その塔、折れてしまった上半分がうなだれる様に近くの山腹に寄り掛かっている姿から嘆きの塔とよばれているのだって話だけど」

 リリィからピッと四つ折りにされた羊皮紙を投げられ、飛びつくように慌てて受け取る。開いて中を見てみれば、今いる地域周辺のものであることが分かった。そして伝承の唄に出てくる塔も霧を纏った形で描かれていた。

 リリィはやはり背中越しに声を漏らす。

「その塔には《鏡様》がいるらしい」

 それが、港町で聞いた奇妙な噂だった。

 ジニアもその場に居合わせていたから一度は聞いた話であったが、片眉がピクリと動くのを止められなかった。

「《鏡様》……俺をこんな体にしてくれた野郎が本当にその塔にいるんだとしたら、願ってもねえよ。こんなチャンス」


          *


 呪いの類にはすべからく解除の方法があり、なおかつ効力を術者に跳ね返す反射の技術が存在するのだが、鏡呪(きょうじゅ)だけは別である。

 鏡呪。

 それは対峙した者を己と同じ性質、特異にしてしまう細胞変換の法。その名に呪を冠していはいるが一概に呪いとは言い難い。一番近い表現があるとしたら感染。

 鏡呪を喰らわば死すら侭ならず永久の枷。

 とまで言われているように、もしも細胞変換に耐え切った場合、その者には不老と不死とが与えられる。

 ジニアがこの呪いを受けたのは今から約二百年前の事だった。

 傭兵崩れのゴロツキだった自分を拾ってくれた初代の君主は死んだ。二代目も。三代目も。友も死んだ。恋人も死んだ。時間すら。

 なぜ自分がこんな目に合わなくてはならないのだと何度も狂った。死のうとしても死ぬことのできない自分が怖い。

 そんな自分を変えたくて、あらゆる学問に手を出したこともあった。

 幸か不幸か、ジニアはその時知ってしまった。鏡呪とは感染性の呪いであり、それには必ず母体が存在するということを。感染源は《鏡様》と神格視される存在であるということを────そして《鏡様》とは、太古の昔に大罪を犯した七人の人間が背負う羽目になった業の称号であるということを。

 鋼の大竜ラァース。それが、ジニアが追い続けている《鏡様》の名である。

 奴ならばこの呪いを解く方法を知っているはずだ。

 謂れなき貶めを受け続けてきた二百余年にも渡る歳月。それを断ち切ることができるのだとしたら、何もいとわない。いとう理由もない。

 ──その塔には《鏡様》がいるらしい。

 漆黒色に染まるジニアの瞳に宿る憤怒。追い続けてきた鋼の大竜と、今回、ついに相見える事となるのか。


          * 


 今まで歩いてきた草原と明確な境界線を引くように、深緑の生い茂った森が眼前に広がる。

 白い霧のようなもやもやが森の中を漂っているのに気付いたのはリリィだった。

「ふむ。これは伝承のとおり」

 しかして、

「ただの霧じゃねえな。弱えがエーテルを感じる」

 それはまるで侵入者を拒むような不気味な霧だった。

 罪深き者は天に昇ることは許されず、聳える塔は金色に瞬いて打ち砕かれた。月下、空は少し明かりて見上げる竜は顧み、沈み、嘆きに至る。折れた塔は霧に包まれて。

 鏡月閃一番を思い出してみる。

 歌詞の意味は分からない。ただ、微弱ながらもエーテルを感知できる霧の発生は、この先に何かがあるということを暗に示していた。

 鋼の大竜がこの先にいるかもしれない。そう考えただけでジニアの憤怒は熱を帯びる。森の先を睨んでいると若干前方にいるリリィが言った。

「なんだビビっているのかなジニア?」

 珍しく、振り返って顔を見せる彼女は、幼くあどけない、からかうような笑みを浮かべていた。