第一章

 もちろん、梶宮の前を歩いていたカップルにも、チカラの影響はもたらされていた。

 必要以上に密着していた女は男から距離をとり、数回なにかを言い合ってから、男から逃げるように梶宮のいる方へ走りだす。

 その女を──正確には十代後半の少女を──見た瞬間、梶宮の顔から笑みが消え去った。

 ダークブラウンに染められた髪は、陽光に照らされて水の流れのように輝いている。聞きたくない言葉を聞いたのか、あるいは他の理由からか、まつ毛にふちどられた瞳は涙に潤んでいた。衣服のそでで覆った手が口元を隠しているのは、自分の泣きそうな情けない顔に気づいているからだろうか。踵の高い靴で走っているため、足の運びはどこかおぼつかない。

 呆ける梶宮のとなりを、女は走り去った。柑橘系の淡い香りだけがその場に残される。

 さっきまで女と共に歩いていた男が困ったように立ち尽くしていることすら、梶宮の目には映っていなかった。

 女を見た瞬間の強烈な衝撃をともなう感情に、ただ戸惑うことしかできない。

 周りの喧騒も、その大多数を占める男女の言い争いも、どうでもいいもののように思える。

 この感情はなんだ? と梶宮は自問する。

 分からない。多様な人間を見続けてきたというのに、知っている感情が少なすぎる。

 ただ、走っていく女の姿が、脳裏に焼きついて離れないことだけは理解できた。今更のように、梶宮は振り返る。

 当然、そこに女はいない。しかし、それでも梶宮は走りだしていた。

 孤独感を何倍にも凝縮したような「片思い」だと理解するのは、女を見つけられないまま日が沈んでしまった直後のことだった。