アヴァロン:2

「D-006?」

 名前を呼ばれたので、私は顔をあげました。

 けれど、それは私に向けられた言葉ではないようでした。いつもより声は遠かったですし、なにより疑うようなニュアンスの言葉を、私はかけられたことがありません。

 私に向けられるのは、いつだって威圧的な言葉と、熱くて冷たくて苦しくて痛い、得体のしれない処置だけでしたから。

「そんなに意外かね?」

「意外もなにも、適応外の個体をどう使うつもりだ? 研究ぐらいにしか使えないだろう」

「はて、それはどうかのう」

 聞き慣れた研究員の声と、もうひとつ、古くさいしゃべり方をする女の子の声が聞こえてきました。足音以外の音が近づいてくるのは珍しいことで、大抵、研究員は無言で私の部屋の牢を開け、無言で私の腕を掴んでいきます。

 私の体が震えてきました。研究員から受けた苦痛の数々は、まだ記憶の新しいところにあります。じりじり焦げていきそうな熱さと、背中から伝わってくる手術台の冷たさと、息のできない苦しさと、体が変形していく痛みが、頭の中で再現されます。

 私はどうなるのでしょうか。

 鉄格子の向こうに見えていた仲間たちは、体が変形したあと、どこかに連れて行かれて返って来ることはありませんでした。

 彼女たちがどこに連れて行かれて、なにをされたのか、私は知りません。

 私は同じ道を辿るのでしょうか。

 それとも、さらに悪い道を辿るのでしょうか。

 だって、今まで体が変形した仲間はいたけれど、研究員が誰かと話しながらこちらに来るなんてことは、一度だってなかったのです。

「はぐらかすな。……くそっ、お前のようなモノの判断を鵜呑みにした本部の気が知れない」

「なに、適応外であろうと、戦力になると判断されたということだろうて。一定の成果が出せたのだから、ここは素直に喜んでおくべきだと思うがのう」

 そのあと、研究員が舌打ちする音と、女の子の笑い声が聞こえました。

 ぶるぶる震えながら、私はふたりが鉄格子の向こう側に現れるのを待ちます。

 この数分間ほど恐ろしい時間を、私はすごしたことがありません。苦しさや痛みを感じている間は無視できる恐ろしさを、私は牢屋の中で感じ続けるしかありませんでした。

 そして、ようやく気づいたのです。

 声はふたつ聞こえるのに、足音がひとつしか聞こえないことに。

「……ほう、これが」

 鉄格子の間から女の子が覗き込んできて、私は目を見開きました。

 女の子は空を飛んでいました。ゆったりした服を揺らして、でも背中の水晶のような翼はぴくりとも動かさずに、女の子は廊下の狭い空を飛んでいました。

 私はぽっかり口を開けて、女の子を見ていました。それ以外に、一体どうしろと言うのでしょう。私と女の子とでは、まるっきり生きている世界が違うような気がしました。私が牢屋にいて、女の子が外にいることに、なんの違和感もありませんでした。

 きっと、世界は最初から、そういう風にできていたのです。

「ふむ、なるほど。このような特徴が……うむ」

 女の子はこくこくと頷くと、くるりと研究員の方を振り返りました。金縛りにあっていた私は、そこでようやく口を閉じることができました。

「今から連れ帰ってもよいな?」

「勝手にしろ。全く、こういうときの書類ばかり早く通る」

 私の見えないところで、研究員は愚痴を吐いていました。

 そんなことは一切気に留めていない様子で、女の子はまた私の方を向きました。

 今度は金縛りにあうこともありません。満足げな表情をする女の子を見ると、なぜだかさっきまで感じていた恐怖も消し飛んでいくようでした。

「では行こうか、D-006。──いや、今日からは名前を変えなければならないな」

 女の子はそう言うと、空に浮いたまま悩み始めました。ふむ、とか、はて、とか言いながら、左右に首を傾げて悩んでいます。

 女の子がもう一度私に顔を向けたのは、それから少し時間が経ってからでした。

「ううむ、困ったのう。どうやら私にはそういうセンスがないらしいのう」

 全然困っていない調子で、女の子はにやりと笑いました。

 生きている世界が違う、それこそ天使みたいな存在が、こちら側に降りてきたような気がしました。

「ぬしは今から、D-006ではなくマーリンと名乗るがよい。【至高の魔術師】の名を汚してはならぬぞ?」

 こうして私は、実験体から魔法使いになったのです。