竜姫

「リディアーヌ・レティシア・グロワール」

 最後にその名を呼ばれたのは、何年前だっただろうか。

 リディアーヌは、今までずっと、ただの「リディアーヌ姫」だった。家族か、ごく近い近衛にだけは、本当の名である「レティシア」という名前で呼ばれていたが、それは決して表に出てはならない、国家機密レベルの秘密の呼び名だったのだ。

 それが今、国を守る騎士たちの前で読みあげられている。

 他者に知られてはならない──名としての役割すら放棄した、けれどそれだけ高貴で高尚たるよう求められている音の連なりを、リディアーヌは絶望的な気持ちで聞いていた。

「父から王位を受け継ぎ、竜のための女王となる覚悟はあるか?」

 問われたリディアーヌは、できるかぎり時間をかけて顔をあげる。

 深い紫色のじゅうたんの上にある、見慣れた玉座。控えめに施された装飾は植物をモチーフとしているが、長い年月で細部がこすれてしまっている。古くさい、けれど愛着のわく、親しみやすい王の椅子。ここに座っている父が、リディアーヌは一番好きだった。

 口上を述べる父の声音はいつもと変わりなかったが、その表情は硬く、真剣で、決めたことを曲げるつもりなどどこにもないような顔をしていた。

 であれば、リディアーヌに逆らう術はない。女王になるための教育を受けてきたリディアーヌは王の言葉が絶対であることをきちんと理解しているし、同時に父王の決断が最善手であることも分かりきっている。

 受け入れたくないのは、一個人としてのリディアーヌ……父母に愛され、庇護されるままでいられたレティシアの部分だけだ。

「──はい」

 かろうじて、声が震えることだけは防ぐことができた。

 顔をあげ、胸を張り、精一杯の虚勢で、王の威厳をとりつくろう。

 いま、ここにいる人たちに、リディアーヌはもう二度と会うことができない。これが、最初で最後のリディアーヌ女王の演説となる。

「私は──リディアーヌ・レティシア・グロワールは、王位を継ぎ、グロワールの血筋をこの代で切れさせぬことを、誓います」

 グロワール王国は滅亡の危機にある。

 原因は、他国の侵略行為だ。火炎の竜の元に樹立したクレアシオン王国は現王が三代目という若い国だが、先王の時代から周囲の国を侵略して成長を続けている。グロワールとの間にあった二ヶ国はすでに占領され、その魔手はすでにグロワールの領土の九割を覆い尽くしている。

 その残り一割が、最後の砦。王に権力を、国民に魔法を与える薬樹の竜がいる王都である。

 グロワール王国に、もはや未来はない。

「……よく言った、リディアーヌ女王」

 王はそう言うと、頭に戴いていた王冠を自ら外し、胸の前に掲げた。

 その後ろで、壁が動く。──否、壁ではなく、それは巨大な竜だった。

 玉座の後ろで翼と首を折りたたんで鎮座していたのは、グロワールに癒しと安らぎを与える薬樹の竜だったのだ。

 腹の前に折っていた首を伸ばすと、竜の顔は丁度玉座の真上にくる。深い紫の瞳は、瞳孔が縦に割れているというのにどこか知的な雰囲気を醸し出していた。

 通常、年老いた薬樹の竜は、それこそ木のように動かない。にも関わらず竜が動き、声を発しているのは、略式であれど冠帯の儀が始まるからで、同時に王国が危機に陥っているからだ。

 癒しの術を得意とする薬樹の竜に、争いに特化した火炎の竜を退けるだけの力はない。

「これより我々は死地に向かう」

 竜の頭の下で、王は厳かに言った。

「戦えぬものは竜の庇護の元で眠ったまま生き残り、この地に留まることになる」

 それは、大きな賭けだった。

 竜より竜脈を授かった人間は、魔法が使えるようになる代わりに竜が死ぬと同時に死ぬ。王族は生まれたときに、王国民は成人するときに竜脈を植えつけられるが、問題は成人していない子どもたちである。

 竜の死んだ国は滅びる。しかし、子どもたちは死ぬことができない。戦勝国に自由を奪われ、奴隷となる運命にある。

 その状況を打破できるのは、ただ一人。

 竜が死ぬとき、王冠を戴いた王族だけが、半年に限り命を延ばすことができる。

「刻限は冬の終わりだ。リディアーヌ女王」

 王の告げたときまでに、新しい薬樹の竜を国に迎え入れ、グロワールを取り戻す。

 年若い女王の細い双肩に、ずしりと重荷がのしかかる。

 反し、頭にかぶせられた王冠は、頼りないほどに軽い。

「リディアーヌ、……レティシア。お前の健闘を祈っているよ」

 最期に、王族としてではなく、家族として、親として接してくれた父の言葉だけが、リディアーヌの背を押してくれた。