吸血鬼の棺桶
その場所を見つけることができたのは、単なる偶然だった。
失敗というほどのものでもないヘマをした少年リュカは、不相応な罰を逃れるために使用人として雇われていた屋敷から逃げ出した。
体罰というより雇用主のストレス発散という表現が正しい行為が横行していた職場だったから、逃げ出す理由はたくさんあったのだが、問題は町に降りても仕事がないことだった。しかも、町には屋敷から買い出しに出る他の使用人もいる。
ならば、森の中の方がまだ希望があるだろう、と軽い気持ちで深い山中へ踏み入ったのが始まりだった。
あてもなく歩いていくうち、雨風のしのげそうな小さな洞窟を見つけたのだ。
幸いなことに、辺りに動物の足跡などはない。なにかが巣穴として使っていないのならば、ある程度は安全を保てるはずだ──と、思ったときに考えるべきだったのかもしれない。
巣穴に丁度いい洞窟を、動物が使わないのには理由がある。
「なんだ、これ……?」
一人でいるにも関わらず、リュカの口からは自然と声が出た。
それほどまでに、彼が見たものはその場にふさわしくない。そして、あまりに見慣れないものだった。
洞窟の最奥に、鋼鉄製の鎖で封印された棺桶が立てかけられている。
ありあわせの素材で作った松明で照らしてみても、棺桶自体に変わったところはない。特別華美でもないから、副葬品の盗掘を防ぐための鎖ではないのだろう。そもそも、盗掘されるようなものがこんなところに放置されているわけもない。
外からの干渉を防ぐためのものではない、となれば、棺の中のものを封印するための鎖だろうか?
仮説を立ててみたものの、リュカは鼻で笑って首を振る。死体が動き出すなど、本の中のできごとだ。いくら怨念や未練を持って死んだって、死んだものが動き出すはずはない。
死んでしまったリュカの母親だって、二度と動くことはなかったのだから。
「……まぁ、動かないなら別にいいか」
誰とも分からない死体と同じ空間にいるというのは少しばかり気味が悪いが、ずっとここに留まるつもりは元からない。二、三日程度なら、我慢すればいいだけの話だ。
いっそ、この際だから盗掘というものをしてみてもいいかもしれない。
こんなところに放置されているのだ。今更なにが失われようと悲しむ人などいないはず。
そう思って、リュカは鎖に手をかけてみた。どこかが緩んでいればそこから鎖を外すこともできそうだし、もしかしたら経年劣化ですでに切れているかもしれないと考えたからだ。
鎖の挙動は、その予想に反した。
リュカの指が触れた瞬間、甲高い音を発して粉々に砕け散ったのだ。
「──え」
反響音の中、呆けた声がリュカの口からもれる。
経年劣化、とかいう次元の話ではない。文字通り、言葉通り粉となった鎖は、数瞬虚空をただよったかと思うとさらさら地面へ落ちていった。そこに、鎖であった面影などどこにもない。
事態が飲みこめず立ち尽くしていると、リュカの目の前で棺桶の蓋が開いた。軋んだ音を立て、蓋は間違いなく内側から押しあげられている。
死体が動くだなんて。まさか、そんなことが。
一笑にふした仮説が現実となるのを、リュカは一歩も動けないまま見つめることしかできなかった。
「あぁ……懐かしい香り」
棺の中から聞こえる声に、リュカは身を震わせる。
しかし、その声は予想に反して人間的で──それどころか、聞き心地よい、年若い少女のような声だった。
浮いた蓋の隙間から出てきた白くて細い指も、よく見れば骨だけになったそれではない。きちんと肌と肉が残っている。
立ち尽くすリュカの前で、棺桶の中の「なにか」は蓋を横へ放り投げてついに自由の身となった。
封印されていた棺桶から出てきたのは、真っ白な少女だ。
伸びっぱなしの長い髪も、日に当たることを忘れた肌も、なにもかもが白い。衣服の体をなしていない朽ちた布地が黄ばんで見えるほどに、少女の体は徹底的に白かった。
わずかに開いた口から、長い牙が覗く。
「封印の鎖を外しちゃうなんて、あなた、いい血を持ってるのね。少しだけ私にくれれば、力を分けてあげるけど──どう? とても喉が渇いてるのよ」
吸血鬼。
リュカの脳がその単語を思い浮かべるのに、そう時間はかからなかった。