世界平和は魔王と共に

「私の負けね」

 そう言って、妖女は苦笑した。

 世界に混沌をもたらし、悪逆非道の限りを尽くしたわりに、やけに人間臭い笑みだった。

 負けを宣言されたものの、俺は油断なく剣を握りなおす。胸の中心を一突きしたにも関わらず、まだ平然と立って言葉を発しているということは、妖女はヒトの形をしていながらヒトとは違う構造を持っているということだ。

 弱みを見せているのはフェイク。という可能性もある。

「そう……私でも負けるのね」

 ぱっくりと裂けた傷口を見下ろし、再び呟く。

 あとずさる妖女の足元はおぼつかない。逃げ場のない一本道で距離をとることに意味はないが、この場所に限っては話が違った。

「なにをするつもりだ?」

 焼却炉。特別な名すら持たない場所ではあるが、その規模はまさに神代のものだ。

 円柱形の空間にぽつりと浮かぶ金属の球体は、一本の橋を除いてどこにも接触していない。神が「かくあれ」と言ったがために成り立つ構造が示すのは、必要以上にこの地に踏み入ってはならないことを明確に表していた。

 いわく、真実の死を与える炉。

 いわく、神すら名づけを拒む忌み火。

 肉体のみならず魂すら燃やし、天国はおろか地獄にすら堕ちることができなくなる徹底した無救済の炎が、金属製の球体の中に収まっている。

「私の負け、と言ったでしょう」

 妖女はすでに、炉の扉へ手をかけていた。

 こちらを見る目が、さらに人間味を増しているようにも見える。諦め、悔恨、絶望、憐憫──あるいは、なにかから解放された安心。複雑に混ぜ合わされた感情が、視線とともに俺に向けられている。

「悪の親玉が勇者に負けたら、魂すら残さず消えるのが筋じゃない。それを言ったら、正義が悪に勝つのも筋ということになるけれど、そちらの筋をどうにかするのはあなたに任せるとするわ」

「……俺がそっちに堕ちるとでも思っているのか?」

 威圧を込めて言ったつもりだったが、妖女から返ってくるのは薄い笑みだけだった。

 その細い指が、焼却炉の扉を開ける。劫火の熱波にあおられ、妖女を追う機を逸する。

 追ったところで、なにかができるとは思えなかったが。

「闇が消え、光が満ち、個が消えた神の秩序が支配する世界で、耐えがたい孤独を味わえばすぐに心が変わるわ。残念だけれど、光と影は共存するべきなのよ……その世界に至れる魔王と勇者が同時に現れる確率が、存在を疑われるレベルで低いだけ」

 炎を背に、妖女が語る。

 憑き物の落ちたような顔は、残忍な笑みを浮かべていたころとはまるで別人だった。不思議な既視感すら覚えるほどで、どこか懐かしい。

 妖女と出会った三年前より、勇者として剣を握った五年前より、もっと前にこの顔を見た気がする。

「置き土産よ。……私の名はレイラ。あなたの勇者が本当の平穏をもたらすものであるよう、願っているわ」

 言葉を返す間もない。

 先代勇者が魔王を討ってから百年。

 妖女が魔物を産み、世界を混乱に陥れてから九十九年。

 その節目を狙いすましたかのように、悪の根源は再び世界から姿を消した。


 妖女が最期に浮かべた笑みは、読み親しんだ英雄伝の女勇者レイラとそっくりだった。