フルスピード・タクシー

 バックミラーに映っていたのは、もう二度と見ることもないと思っていた顔だった。

「ご無沙汰ね、ハウンド」

 こっぱずかしい二つ名を呼びながら、その女は涼しい表情をしている。このクソ暑い時期だというのに、肌に少し汗が浮かんでいる程度なのは一体どういうことなんだろうか。汗腺がバグってるとしか思えない。

 かく言う俺は、冷房の効いた車に引きこもっているので外の辛さはあまり実感できないのだが。

「……嫌がらせかなにかか?」

 問いながら、タクシー強盗対策のための車内カメラを切る。猟犬とか言われてる時点で終わってるが、まぁ異常さえなければ改められることもないだろう。

 異常さえなければ。

「元上司に対してそれはないんじゃない?」

「あくまで、元、だろうが」

 客への不満はあっても、うだうだしてはいられない。後につかえている同業者のためにも、客を乗せたらすぐに駅前ロータリーから出なければならないのだ。

 というわけで、行き先はまだ聞いていないが、発進。

「あら、感心ね。私の元を離れても心が通じ合ってるなんて」

「いや、目的地なんて知らねぇからな。口に出していただかないと分からねぇからな」

「適当にそこらへん流して」

 ぼったくるぞこのクソ上司。

 意図が全く読めない。バックミラー越しに見える表情も、さっきから変わっていない。

 しかし、見れば見るほど五年前から全く変わらない姿をしている──いや、俺がこの女の元で働き始めたころからだから、大体十五年は同じような見た目をしていることになるだろうか。

 艶のある長い黒髪も、年齢不詳なその美貌も、個人的には大変好みではあるのだが、いかんせんワイシャツの胸元が貧相でそそられない。

 どうせ女上司なら、映画にでも出てきそうなグラマラスな体型であってほしい。

「……ちょっと、なに考えてるの」

「いえなにも」

 どんだけ勘が鋭いんだコイツは。

 目線だけバックミラーに向けると、くっきりしたアイラインが引かれた強そうな目がこちらを見ていた。

 うへぇ、と思うのも束の間、疑問符が即座に頭をよぎる。

 バックミラー越しに目が合う──ということは、相手もバックミラーを見ていたということになる。

「……なぁ」

「なに?」

「まさかとは思うけど、なんか面倒事に巻き込まれたうえで当タクシーをご利用しているわけじゃございませんよね?」

「やっと気づいたの? 勘が鈍ってるんじゃない?」

「そんな勘とは無縁でいたかったんだよ!」

 勘を働かせる習慣はなくなっても、一度身に染みついた感覚は残っていた。意識して周りを見れば、確かにトラブルの根源らしい単車と乗用車が他の車両数台を間に挟んで後ろに張りついている。

 五年ぶりに意識した「追手」は、思いのほか気味の悪いものだった。今追ってくるそれが特別、というよりは、五年間で俺自身の耐性がなくなっているような気がする。

 なにせ、ここのところ遭遇する「面倒事」といえば、訳の分からんことを言ってる酔っ払いくらいだ。大人数でストーキングしてくる怪しい集団なんてなかなかお目にかかれない。

「正直、引退したあなたを頼るのは心苦しいのだけれど、四の五の言えるほど相手が優しくなくて」

 後部座席の女は、若干悪く思っているような口調で言いながらなにやらごそごそと座席をいじっている。カチン、と音がしたのはシートベルトだろうか。

 カーチェイスの準備をするのはやめてください。じゃない。後部座席も常時シートベルトが基本だった。

 それにしても、本気だろうか。今はなんの変哲もないタクシーだが、五年前はチューンアップされた専用車だった。しかもこっちはブランク付き。なんで俺を頼ったのか、正直理解できる気がしないが、まぁ、たまたま近くにいたからこうなったんだろう。

 早いうちに車内カメラを切っておいてよかった、と今更ながら思う。

 ──と、やけに冷静に状況を受け入れている辺り、俺は「こちら側」の人間なんだな、と嫌でも思えてしまう。

 すでに一度、しかも自ら足を踏み入れている以上、愚痴を言えるような立場ではないのだが。

「またなんか見たのか、あんたは」

「そういうこと。まぁ、今回は口封じじゃなくて私の記憶が狙いだから、いきなり爆発とかはないと思うけど」

 この場合、俺の命の保証はミリ単位もない。ただの肉壁扱いである。

 実際、突然左方から突っ込んできた大型車は前部座席──つまり俺を狙いすましてきていた。ハンドルを切り、アクセルを踏み込んで回避する。かすってもいないはずのサイドミラーが吹き飛びそうなニアミス。

 冷房に全てを任せていた汗腺が、にわかに仕事を始める。

「狙われてるのは今度来る某国トップのスケジュールと警備情報なんだけど……これだけ言えば十分よね? ハウンド?」

 急な進路変更と加速だったにも関わらず、後ろから聞こえてくる声は余裕ありげで涼しげだ。状況にも内容にも反した口調は、安心感どころかいらない危機感までこちらに植えつけてくる。

「いくらハウンドって呼ばれても、いま逃げることに変わりはないってことだよなぁ?」

 悲鳴も罵声もクラクションも、鳴る先から後ろへ流れていく。

 アクセルを緩められるはずもない。カーチェイスは、今まさに始まったばかりだった。