糸切り鋏の書

「お前……北原に、何をした?」

 詰問の声はかすれていた。

 声の主である乾武志(いぬい たけし)の思考はホワイト・アウトを起こしている。疑問の言葉ばかりが頭を埋め尽くし、堂々巡りを繰り返す質疑応答は全く要領を得ない。

 何が起こっている?

 どうしてこんなことになった?

 一体なぜ?

 混迷を極める思考回路の中で、乾武志の冷静な一面が切り捨てるように言った。

 ──白々しい。

「分かってるんでしょ、乾クン」

 詰問に対する答えも、武志がうろたえていることを認めはしない。

「ほんとは全部、分かってるんでしょ」

 聞き慣れているはずの声は、言葉を繰り返して武志を責める。

 嘘をつくな。現実を受け止めろ。

 見たもの全てが、事実だ。

「分かってるから、選ばなかったんだもんね」

 理解を示すような口調は、むしろ内面にひそめられた攻撃性を助長しているようにも思えた。

 首を振ることなど、武志にはできなかった。まばたきすら最小限にとどめられ、乾燥した眼球がひりひりと痛みを発する。

 それでも、目の前に突きつけられた現実から、目を反らすことができない。幾度も繰り返した現状把握を、もう一度最初からやり直す。

 場所は、夜の公園。そろそろ春、という季節だが、風の暖かさなど微塵も感じられない。冴えた光を頭上から放っているのは、思わず見惚れてしまいそうな満月だ。

 その下で、月光に照らされた二人の少女がいた。

 異様はすぐに知れる。

 少女の片割れが、座ったまま人形のように動かないのだ。

 うつろな目は足元の地面に向けられ、弛緩した腕は体の両脇に投げ出されている。時折浅い呼吸をしているのが見えなければ、死体だと言っても疑われることはないだろう。

 武志が最後に見た彼女は、よく言えば活発な、悪く言えば落ち着かない性格をしていた。少なくとも、この状況で黙っていられる性分ではない。

 活発で世話焼きでお人よし。北原柚子(きたはら ゆず)とは、そういう少女だった。

 そう。だった、である。

「優しい乾クンだったら、何があったかなんて、私に言わせないよね?」

 柚子の髪を撫でながら、もう一人の少女は柔らかく問いかけた。

 そして、妖しく笑う。

 たったそれだけで、武志は鳩尾の奥に言いようのない圧迫感を感じていた。ぎりぎりとこみあげる不快感は喉をさかのぼり、理解したくなかった現実を口に出させる。

「糸を、切ったのか?」

 きゅう、と少女の眉が寄る。困ったような顔をして、しかし口元には笑みを浮かべて、首を傾げる。その拍子に、頬が柚子に触れた。

 途端、武志に襲いかかる圧迫感はいやに強さを増す。

 見慣れた風景だ。

 寄り添って、触れ合って、ふざけ合って、笑い合う。二人の少女は、そういう関係だった。

 不可視の圧力に臓腑を絞られ、吐き出すように、武志は現実を連ねる。

「『糸切り鋏の書』を使ったのか? 北原に?」

「ほら、分かってる」

 頬で柚子に触れたまま、少女は今度こそ満面の笑みを浮かべた。

 武志に襲いかかる臓器を押し潰すような吐き気は、それでも止まらない。むしろ、熱を孕んで増幅しているようにすら思える。

 熱の正体は、怒りとも、悲しみとも言えなかった。

 ただ、こみあげる感情に任せて言葉を吐き出す。

 それが間違いだということは、武志自身も理解していた。

「だって、お前が……東(あずま)が言ったんだろ、『糸切り鋏の書』は人格を壊すって!」

 声を荒げる武志に対し、少女は目を細めて笑みを深める。月明かりに照らされたその姿は、力のない人間を嘲笑う、高慢な女神のようでもあった。

 事実、少女はとある事件に巻き込まれてから、ヒトならざる力を保有している。森羅万象に関する知識を記した〈禁書〉、その一部の写しである『糸切り鋏の書』を持つ彼女は、生物の寿命──すなわち運命を象徴する「糸」を断ち切る力を有する。

 少女・東うらら曰く、その「糸」は生命の前と後ろに繋がっているという。生きるということは糸を辿ることであり、前に糸が伸びているだけ命は生き延び、後ろにあるだけ過去を思い出すことができる。

 それだけ聞いてしまえば、うららの持つ力がどれほどのものか、容易に想像はつく。うららの力が分かっていれば、今の状況がいかにして作られたのかも、簡単に予想をつけられる。

 信じられない、という気持ちは、これっぽっちも覆らないのだが。

「……あんなに、仲良かったのに」

「それ、乾クンが言う?」

 呟いた武志に、うららは突き放すように応える。

 笑みをかたどっていた唇は、いまやなんの感情も表していない。あまりに急激に表情が抜け落ちたせいで、顔自体が平たく、薄っぺらくなったしまったかのような錯覚が起きる。

 背中に刺さる冷たさが、どこに逃げていくでもなく踏みとどまって暴れだす。恐怖などという生ぬるい感覚ではないと、武志を構築する全細胞が悲鳴をあげる。

 認めざるを得なかった。

 幼馴染の少女に対して、戦慄していることを。

「私のことも、柚子のことも選ばないで、両方とも突き放した武志クンが、言うの?」

 突き刺すような声だった。

 断ち切るような言葉だった。

 武志の判断も、柚子の人格も、うららの心も、三人の関係すらも、破壊しつくしてしまいそうな叫びだった。

「あず、ま……」

「やっぱり」

 うららは泣きそうな顔で笑った。

 その右手には──柚子の体で隠されていた右手には、大きな裁ちばさみが握られていた。

「もう名前で呼んでくれないんでしょ?」

 うららの持つ『糸切り鋏の書』は、ふたつの「死」をもたらすものだ。

 ひとつは、生命の前、すなわち未来に続いていく糸を切る、肉体的な死。

 もうひとつは、生命の後ろ、すなわち過去に残された糸を切る──精神的な死である。

「やり直せば、まだ間に合うかな? 乾クン」

 裁ちばさみの切っ先は、乾武志へと向けられていた。