魔植学の指輪

 冗談じゃない、と思ったことは、別にこれが初めてじゃない。

 少し過去のことにはなるが、学生時代には夏季休暇手前に地下鉄の定期がたった一日足りない、なんてこともあった。腹ペコのときに限って手持ちが硬貨一枚ぶん少なくて、ランチの量を一段階さげなけりゃならなかったこともある。

 今回の場合も、似たようなものだ。

 がちん、と金属音を立てて撃鉄が跳ねあがり、そのまま何も起こらなかった。

 それだけだ。

「……冗談じゃねぇ」

 たった一発。

 弾丸が足りない。

 俺の前では、呆けた顔をしていた男がすでに平静を取り戻していた。自分に向けられているリヴォルバーに弾が入っていないことを理解したのだろう。

 へっ、という呼吸音のような笑いは、隠しきれない安堵も含んでいる。

 主成分は、嘲笑だが。

「そうなりゃただのアンティークだなぁ!」

 そう言った男は、なにやら新しそうな鉛色のオートマチックをこちらに向ける。それが最新式なのかどうかは俺には分からないが、少なくともこの手にあるリヴォルバーよりはかなり新しいだろう。

 なにせ、このリヴォルバー。

 戦場よりも博物館や美術館の方が似合いそうな、ゴールドの塗装が貼りついているのだ。

 無論、それを際立たせるための飾り細工もある。金ピカじゃないところなんてグリップぐらいで、それだって柔らかいクリーム色をしている象牙製だ。

 つまるところ、完全無欠に観賞用のアンティークなのである。

 だから、男の言ったことも間違いじゃない。弾切れを起こせばただの鉄塊になるオートマチックよりはマシだと思うか、この状況では弾切れ起こしてればどっちもクソだと思うかは、人それぞれだろう。

 俺はもちろん、後者の側だ。

 そんでもって、撃った弾の数すら数えていない俺自身が一番のクソだ。

「死んでもらうぜ、復讐代行。地獄じゃ仕事を選ぶんだなっ!」

 男の指が、引き金にかかるのが見えた。

 弾の装填なんて間に合わない。回避しようにも、狭い裏通りじゃ五分も生きていられないだろう。へたに避けても、弾丸は体のどこかしらに命中する。それなら額に一発ブちこまれた方が楽だ。

 ──死ぬのか。

 特にこれといった感情は湧きあがらなかった。恐怖とか、不安とか、死の直前にはそういうものを感じるのかと思っていたが、何もない。

 一日だけ定期が足りなかったときだとか、硬貨が一枚だけ足らなかったときに感じた、「まぁこんなこともあるだろうな」という感想じみた何かが意識をよぎる。

 男の人差し指に力が入っていく様すら視認して、けれども弾丸が俺の額を貫くことはなかった。

 それどころか、銃声すら鳴らなかった。

 代わりに発生した音は、ばきりとぐちゃりを混ぜたような、硬いような柔らかいような、渇いているような湿っているような音だった。

「……あ?」

 男が呆けた声を出す。

 その右手は──銃を持っていた右手は、見るも無残に潰れていた。

 皮を食い破り、肉を裂き、骨を砕き、鋼鉄を貫いた強靭な茨が、アスファルトのひび割れから伸びていることだけは視認できる。

 皮膚と銃に隠された中身がどうなっているかなんて、知る由はない。

 想像したくもないが。

「あ……あぁあああああああッ!!」

 だから、右手と銃をスクラップにされた男の悲鳴がワンテンポ遅れたのは、ある意味では当然のことだろう。理解できない現象を前に、人間の脳は意外とあっさりフリーズする。理性で理解していたところで、それは同じだ。

 ──もっとも、頭がおいついていないのは、哀れな犠牲者だけではないのだが。

「あーあーうるっせぇなぁ、オイ! きたねぇ声でワメいてんじゃねぇぞニンゲンサマよぉ!」

 突如、俺の背後から飛び込んできた声は、信じられないほどに濁っていた。

 もはや、言語として聞き取れていること自体が不思議に思える。男なのか女なのか、若いのか老いているのかも予想がつかない。

 手っ取り早く確かめるために振り返ってみると、そこにいたのは信じられないことに幼い少女だった。

 冗談じゃない。

 うつむき気味なうえにつばの広い帽子をかぶっているものだから顔なんて見えたものではないが、それにしたって小さな女の子からあんな汚い声が出てくると誰が思うだろうか。

 いや、思わない。

「そんなおっかねぇオモチャ持ってるんだったら、ヤられる覚悟も持っとかねぇとなぁ!」

 ──しかして。

 どうやら今回の「冗談じゃない」は不発に終わったらしかった。

 少女の口元はまだ隠れたままだが、汚い濁声と同時に動く口が別にあったのだ。

 それは、件の少女が胸元に抱いた人形……ではなく、ヒトの形をした植物の根に刻まれた、切れ目のような「口」、だ。

 バカみたいな話だ、と思わないこともない。

 けれども、金ピカの銃を持って銃撃戦に臨む俺のようなバカだって実在するのだから、濁声で話す植物の根があってもおかしくはないだろう。

「……マンドラゴラ、わたし、まだ殺してない」

「そういう意味の『ヤられる』じゃねぇよ! 『ヤられる前にヤれ』ってよく言うだろ!」

「殺される前に殺せ、ってこと?」

「それもそうだな……じゃあ殺そうぜ!」

 植物の根とちぐはぐな会話を交わしたのち、少女はようやく顔をあげた。

 帽子の下から、感情の読めない瞳がこちらを見上げてくる。小さな指にはめたシロツメクサの指輪は幼い少女に似合いのものだったが、日の当たらない不健康な生活すら想像させる青白い肌のせいで、見る人に活発な印象すら抱かせない。

 ただし、それを不健康だと罵ることなどただの愚行。現実を見ることができていないと、自ら大声で宣伝しているようなものだ。

 幼い少女は、エルフ族特有の尖った耳を、幅広のつばの下に隠していたのだから。

「あなたが、復讐代行?」

 年不相応な冷たい声で、少女が問う。

 端的に言ってしまえば、エルフ族は被差別民族だ。尖った耳という身体的特徴から始まり、人間の迫害に対抗するために探究することとなった魔学さえも排斥の対象となった、賢くも不幸な種族たちなのだ。

「ふたりめの魔銃学者であるあなたに、頼みたいことがあります。魔植学の後継者として、師より伝達者の命を賜りました。つきましては」

 かたっ苦しい言葉を並べ、少女はシロツメクサの花をつまみとる。

 白い花弁のように見える部位は、その実ひとつひとつが一輪の花として咲いている。一輪の花は種となり、さらに植物として成長していく──それが自然の摂理であり、不変の事実ではあるのだが、未来に訪れる事象を捻じ曲げることをエルフ族たちは可能にした。

「その障害となりうるものを、排除させていただきます」

 すでに決まりきった将来を、自らの都合のいい方向へと修正する。

 可能性を犠牲にして、異能を顕現させる。

 つまるところ、魔学とはそういうものだ。

「花が種となり、芽吹き、また花となる未来を私は奪う。花は私の茨となり、私の刃となり、また悪しきものの鎖となれ」

 少女が言葉を紡いだと同時、未来を捻じ曲げられた花から茨が伸びて、俺の背後で湿った破壊音を響かせた。

 どうやら俺は、冗談じゃあ済まされないような何かに巻き込まれたらしかった。