神隠しの森
その日は、「夕焼け小焼け」のメロディがやけに近くから聞こえてきた。
不思議に思って背後を振り返ってみると、高くのびた木の枝の隙間から灰色の人工物が見える。電柱より細い円筒形の柱と、先端で二方向を向くスピーカー。それを見て、毎日聞こえてくる「夕焼け小焼け」や町内の放送はここから音が出ていたんだな、と春香は今更ながらに理解した。
考えてみれば、当然だ。やまびこでもなんでもないのだから、放送はスピーカーから聞こえてくるに決まっている。ただ、そのスピーカーが成長しすぎた公園の木々に隠されてしまっただけで、「この曲はどこから聞こえてくるのだろう?」という疑問が生まれてしまったにすぎない。
小学校の校内放送と同じなんだなぁ、と思いながら、春香は顎に手を当てて考える。
これからどうしよう。
もちろん、「夕焼け小焼け」が流れたのだから、すぐにでも家に帰るべきだ。いま春香がいるのは住宅街から少し離れた自然公園で、帰り道の街灯はまばらだ。暗い道を歩くのは危ないし、なにより心細い。
けれど、気になることがひとつだけあった。
──アキたち、まだ探してるかなぁ。
春香は小学校の級友たちの顔を思い浮かべ、小さくため息をついた。
春香がわざわざ家から離れた公園までやってきたのは、クラスメイトで友達でもあるアキの誘いがあったからだった。小学生からすれば十分に広大な森や草原を含んだ自然公園は、遊具が二、三個置いてあるだけの公園とはワケが違う。その中で、たった五人でかくれんぼをする、というのだから、声をかけられたときは正直おどろいてしまった。少なくとも、放課後の数時間で終わるような遊びではない。
結局、春香はひとりで森の中にいる。かくれんぼは時間内に終わらなかったのだ。
こういうときにスマホがあれば便利なのに、と春香は思う。けれど、持っていないものは仕方がない。
とりあえず、森から出て見つかりやすいところに移動しよう。勝ち負けにこだわっている場合じゃないことくらい、春香だって理解している。
そろりと立ち上がって周りを見ると、日が当たりにくくなった森の中は思ったよりも暗くなっていた。普段はきれいだと思える夕日の橙色も、木々の隙間からのぞくとどこか不気味に見えてくる。
来た道を思い出しながら歩を進めようとして、下ろした足が小枝を踏み折った。
ぱきり。
「見ぃつけた」
そのとき、春香の背後で唐突に声がした。
肩どころか、全身が跳ねあがる。どうして。そこにはさっきまで、誰もいなかったはずなのに。
春香が振り返るよりはやく、肩に手が乗せられた。男女の区別がつかない声にふさわしく、堅くもなく柔らかくもない掌がずしりとのしかかる。
真っ先に思い浮かんだのは、家で見たニュースの映像だ。自分と同じ年頃の少女が、誘拐された末に殺された事件。近所となんら変わらない住宅街や、人影のまばらな公園の映像が、ニュースキャスターの硬い声と共に流れているのは少し異様に見えた。
その画面の奥の他人事が、夕方の森の不気味な空気に惹かれてこちらへ近づいてきた──なんていう、バカみたいな想像力すら働いて、春香の脳はどうにか現実から逃避しようと試みていた。
されど、現実は現実。
子どもの春香に、大人の掌から逃れる術はない。
「逢魔時にかくれんぼとは、なかなか見れない格好の獲物だ。科学の発展は神隠しを迷信にしたが、同時に子どもを家の中にとじこめてしまったからねぇ」
中性的な声はのんびりと語る。その言葉のひとつひとつが、春香の精神を確実に追い詰めていた。
──この人はヤバい。そう直覚したのは、なにもテレビや学校で聞くような犯罪者や不審者の情報と照らし合わせたからではない。人間の理性と言うよりは動物の本能で、文字通り生きている世界が違うと理解してしまった。
息苦しさと気持ち悪さが腹の底でせめぎあって、喉の奥で足止めをくらっているようだ。
人なのだろうか。
では、そうじゃないとすれば、なんだ?
「隠し神」
答えと思しき聞き慣れない単語は、右方から飛び込んできた。
低く、這いずるような声音のした方へ春香が目を向けると、木々の間に立っていたのは見慣れない和装をまとった男だった。和装の特徴でもある通気性よりも動きやすさを重視したつくりは、フィクション作品で見られる忍者装束にも似ている。
ずるり、と、男は影のように動いた。本当にそこにいるのか不安になってしまうほど、滑らかでよどみない動きだった。
こちらへ、近づいてくる。
「夕方に女子どもをさらうような輩がまだ残っていたとはね。離してやれよ。子どもから絞った油なんざ、今時流行らねぇぞ?」
軽薄な笑みを浮かべ、男は春香とその後ろの存在へ向けて手をさしのべた。声の重さと動きに似合わない表情と口調の軽さは、自らの本質を悟らせまいとしているようだ。
対し、春香の後ろに立つ隠し神は鼻で笑う。
「そのお願い、私が聞く必要はあるのか?」
「別に、お願いしてるわけじゃないんだけどな」
「じゃあ、なに?」
「命令」
差し出した手を所在なさげに振って、男は肩をすくめる。
その言動に、春香の肩に乗った手が力を増した。
「あぁ、言い方が悪かったな。分かるようにきちんと命令形を使ってやろう──今すぐその子を離せ」
「……調子に乗るなよ、ヒト憑きが」
口調が変化する。空気が変質する。
ずしり、と腹の底に石を入れられたような重圧感が、春香に襲いかかってきた。彼女を挟んで向かい合う二つの存在が、誰にはばかることなく闘志をぶつけあっている。
重さを増し続ける空気の中、春香は場違いなまでに非力なまま「なにか」に巻き込まれようとしていた。獣同士の争いに武器を持たない人間が関われないのと同じように、手出しどころか声を発することすら叶いそうにない。
唯一の救いと言えば、忍者装束の男が春香の味方寄りだということくらいだろうか。
とはいえ、その真意も、その正体も、明らかではない。少し間違えれば春香にも牙を剥きそうな、やはり野生動物じみた扱いにくさがある。
「同類とはいえ、油の材料に忠誠を誓っているような輩が上位に立とうとするつもりか?」
春香の肩を掴んだまま、隠し神は敵意もあらわに言葉を放つ。
視界の端で銀がきらめき、春香は恐る恐るそちらに目を向けた。長い針が折れ曲がったような形状の串が、頬に触れそうな距離にある。
子どもから絞った油、油の材料。二人から放たれた不穏な言葉から、察したくもない串の使用方法はなんとなく知ることができてしまう。
恐怖と絶望に染まる春香の思考とは対照的に、忍者装束の男は口元に笑みを浮かべた。
小さく、薄く──しかし凶悪極まりない獰猛な笑みを。
「あぁ、なんだ。ただの自殺願望者だったか。……その挑発、鎌鼬である俺が、主人に尽くすタチだってことも理解して言ってるんだもんなぁ?」
急速に伸びた男の爪が、鎌状の凶器と化す。
黄昏時の森、二人のアヤカシと一人の少女の邂逅に気づくものは、いまだいない。