サマーナイト・セメタリー

 ──空気が肌に張りつくようだった。
 風すら、ねばつく。高気温も高湿度も日本の夏には必ずつきまとうものではあるのだが、ことこの場所は異常だった。
 『扉』が近い。と、青年は気をひきしめる。
 スマートフォンに備え付けられた、本来カメラ機能に連動するフラッシュのためのLEDが、インストールされたアプリによって懐中電灯の役割を果たしている。照らし出されているのは、整然と並ぶ墓石の群れだった。

 光の円の外側でさざめくのは、茂る森の葉。

 頭上で輝いているはずの満月は、分厚い雲に隠れている。

 盆の夜である。

 古来、先祖の霊が「こちら側」に帰ってくる日を祝う行事だ。すなわり冥界への扉が開く日でもあり、青年の属するコミュニティでは欧州のハロウィン、冬至の祭りと同等の扱いを受ける。

 つまるところ、繁忙期。

 各地で開く扉をひとつずつ閉めて施錠する、ごく基本的だが面倒極まりない仕事が山と積まれる時期である。

「……なにも、こんな時期に開かなくてもなぁ」

 高温多湿、汗と湿気を考えると、青年のぼやきももっともだ。

「心中お察ししますが、あなたはこの地域の主戦力です。もう少し急いでいただけるとありがたいのですが」

 独り言じみた青年の言葉に、返す声があった。

 平坦な若い女の声は、青年の肩の上から。当然のようにそこに座っている黒猫は、金の瞳をきょろきょろと動かしながら人語を発していた。

 世界に散らばる魔法使いたちを束ねる、偉大なる魔女の使い魔のひとつだ。

「へいへい」

 軽い調子で頷きながら、青年はLEDの光を墓場の中心へ向けた。

 他の墓石と、さして変わりはない。しかし、近づけば近づくほど空気がねばつき、強くまとわりついてくる。

 不可視の扉が、そこにあった。青年があと数歩進めば、冥界へと踏みこめてしまう──そういう扉だ。

「…………」

 黙したまま、青年はスマートフォンをタップしてアプリを閉じ、光を消す。モニタの淡い光しかない中で、扉のある場所は暗闇よりなお暗く見えた。

「施錠の儀……の前に、排除かな」

 これまた軽く言ってのけた青年の前で、ずるりと白が生えた。

 暗闇より暗い黒から、にじみ出るような白。死人の肌にも似た、骸の骨にも似た白。日本におけるかつての喪の色──黒よりなお死に近い色だ。

 その白が、なんとか人の形をとろうとしているのが、かえって不気味だった。腐り落ちた肉がどうにかして体をたもとうとして、しかし次々と崩れてしまうような、そんな印象。

「冥界の死霊、ですか」

 その光景を前に、魔女の使い魔は坦々と言った。

 言葉の間に、死霊は次々と数を増やしていく──一が二に、二が四に、四が一六に、冥界からあふれ出した霊が、生者の世を侵食しようと群れをなしているのだ。

「やれやれ」

 肩をすくめ、青年は慌てる様子もなくスマートフォンを操作する。軽やかに指が動いたのち、モニタを死霊たちへ向けるようにして突き出した。

 映し出されるのは、魔法円。

 意味と力と歴史を持つ、魔法使いのための武器。

 加えて、青年の詠唱がほとばしる。

「悪しきものをその身に押しとどめろ。封印の賢母!」

 異能が発動する。

 這うように進む死霊たちを、鳴動した大地が包み込んだ。蛇のように、腕のように蠢いた土が、白を捕えて地に縛りつける。

 その様に、黒猫が顔をしかめた。

「あいかわらず、俗世のものを使いますね」

「デジタル世代なんでね、あいにくと」

 苦笑しながら言った青年の瞳は、暗闇の中で茶色く輝いていた。

 モニタを死霊へ向けたまま、人差し指で横にスライドする。別の魔法陣が表示され、再度詠唱。

「役割を果たせ。冥界の守護者!」

 地中から、死霊たちを追うようにして三つ首の犬が現れる。

 言わずと知れたケルベロスは、境界の守護者でもある。生者が死者の世界へ行かないように。それ以上に、死者が生者の世界に行かないように見張り続ける番犬の役を負う。

 本来、盆であれば死者たちも戻ってくるのが道理なのだが、それはきちんと形を保つだけの自我を残した霊だけた。無尽蔵に生者を貪る、自我すら死んだ霊は冥界から出ることも許されない。

「帰りな、死霊ども」

 やはり軽い調子で、青年が言う。

「イマドキの機械だらけの世界なんて、食ってもうまくはねぇだろうよ」