柳葉家のワケアリな日常
「もうすぐ父の日ですね」
かけられた声に柳葉 輝(やなぎば ひかる)が顔をあげると、父親が目の前で両膝をついているのが見えた。
自身の視線が急激に冷えこんでいくのを他人事のように感じながら、輝は目を通していた簡易的なつくりの冊子をわきにおく。
「……それで?」
「言われなくても分かるだろう輝!? モノはいらないんだ、言葉だけで……」
「お前にかけられるほど劣等な言葉なんてこの世に存在しないだろうが」
「!!」
ため息まじりに言った輝に対し、父親である男は片膝をたてて立ち上がりかける。
その顔に浮かんでいるのは、混じり気のない歓喜だった。
「ひ……輝!? いいのかそんな素晴らしい言葉を……!」
「気持ち悪いからやめろ」
一言で切り捨て、輝は腕を組んで実父を見下す。
柳葉 照彦(てるひこ)。世界的には指折りの実力を持つ脳外科医で、さらに日英ハーフの「ダンディな医者」として有名だが、家庭内では被虐趣味のどうしようもない人間として扱われている。
何人もの人の命を救っているにも関わらず、家庭内での地位は底辺。しかも本人がそれを望んでいるのだから、「天は人に二物を与えず」という言葉は本当なのかもしれない。
もっとも、被虐趣味だからこそ優秀な執刀医としてのハードスケジュールをこなせると言えないこともないのだが。
「だいたいお前、なんで家にいるんだ。ここのところ忙しくて家に帰る暇もないって聞いたから帰ってきたっていうのに」
「これ以上働くって言うならベッドに縛りつけるぞって院長に言われてしまってね……」
輝の怪訝そうな顔に気づき、補足。
「僕は明(あかり)さん以外に縄をかけられることを固く禁じられているんだ」
「……自分の親とはいえ、お前ら夫婦の愛情表現が心底気持ち悪い」
「そんな! 夫婦まとめてじゃなく僕だけを罵ってくれ!!」
「黙れ」
輝の命令に、照彦はすぐさま口を閉ざす。罵倒どころか命令口調や無視すら褒美と受け止めるマゾヒストを相手に、有効な解決打を見つけられていれば輝はすぐさま実行に移している。
そもそも、照彦の相手をするのは彼を夫として選んだ妻──つまりは輝の母親である柳葉 明の役割だ。
残念ながら彼女は現在、高校教師として仕事中。平日昼間の柳葉宅には、輝と照彦の二人しかいない。
「ところで……」
「あ?」
「輝こそ、研究室から出られないとか言っていなかったか? 家に帰ってないって話を聞いてたんだが」
それだって、と照彦は輝が読んでいた冊子を指さして、
「学術雑誌だろ? コンピュータ系は詳しくないけれども、研究の途中なんじゃないか?」
「…………研究室にこもりすぎたんだよ」
「僕と同じだな」
「一緒にするな」
心底嫌そうに言う輝に対し、照彦はどこか嬉しそうだった。輝は舌打ちで返すが、その意味もほとんどないことならば理解している。
なにを言っても無駄だ──というよりは、なにを言っても照彦にとって都合のいい捉え方をすることは可能になってしまう。それによって相手を不快にさせるという点では、マゾヒストもサディストも同じようなものだった。
特に、その両者を幼少期から見続けてきた輝からすれば、似たり寄ったりな存在であることに疑いの余地がない。むしろ扱いにくさで言うとマゾヒストの方が面倒である。
「そういえば、輝」
たった今思い出した、とでも言うような口調で、照彦は話題を転じる。
「悪く思わないでほしいんだけれども、いや思ってくれても構わないけれども、弟君から頼まれごとをしていてさ」
「珍しいな」
「うん、輝が家にいたら連絡してくれって言われたんだけど……」
ぴくり、と輝の片眉が跳ね上がる。
「おい、それは」
「罵ってくれても踏んでくれても構わないよ!」
「────」
なぜか胸をはって言った照彦の鳩尾につま先を叩きこんでから、輝は逃走のために玄関へ向かう。
輝の双子の弟──燈(ともる)は、兄とは正反対の性質を持っている。容姿からして、輝は母親から受け継いだ黒髪黒瞳、燈は父親から継いだ茶髪碧眼だ。性格だって、輝はアンドロイドAIの開発に心血を注いでいるのに対し、燈は完全に享楽主義でどちらかと言うまでもなく遊び人の気がある。
対極も対極。──ではあるが、彼らの仲はさほど険悪ではなかった。なかったのだが、輝が逃走しなければならない理由が、約三年前に発生した。
それまで遊び呆けていた燈がようやっと真剣な交際を始めたという、本来祝福するべき出来事だったはずなのだが……
「はいただいま。そして玄関確保」
玄関からの開扉音と声に、輝はすぐさま進路を変更。唯一の出口を早々に諦め、自室への立てこもりを試みる。
「兄貴ぃ、観念しろよ。『彼氏』には痛くしないように言っといたからさー」
「ふっざけんな!」
吐き捨て、背後には目もくれずに部屋に転がり込んだのち、扉へ背を当てる。扉ごしの衝撃が背中に伝わったのは、それからわずか数秒後だった。
「くっそ……往生際悪ぃ……というか引きこもりのくせに瞬発力はあんのな……」
「誰のせいだよクソッタレ……!」
悪態を吐いてから、輝は扉を止めるためにあらかじめ用意しておいた重石(ほとんどが学術書による)をタオルの上に乗せ、さらにタオルを扉と床の間にかませて固定する。
扉から背中を放すと、すぐさま廊下側からの力が働くが重石は最大限の威力を発揮していた。外から聞こえる「弟を助けたいとは思わないのかよチクショー!」という言葉は無視して、点けっぱなしにしていたデスクトップPCへと向かう。
そこには、大学院研究室に戻ってから行う予定の作業をメモしたファイルが開かれているはずだったのだが、
「なん……?」
モニタ上には、解読不能な文字列が並んでいた。
バグか、あるいはウイルスの類か──と目を走らせている内に、輝は自らに生じている異常を自覚する。
机についているはずの手の感覚がない。
背後から聞こえる燈の声がおぼろげだ。
まずい、と引きはがすようにモニタから視線を反らすと、入れ替わるように次の異常が視界に飛び込んできた。
年端もいかない幼い少女が、ここ数ヶ月使っていないベッドに腰かけている。
異常のただなかにあって、どこかで冷静さを保っていた輝すら、思考に空白が生じた。現状の把握すら放棄せざるをえないほどの、混乱。
そんな輝を意に介さず、少女は問う。
『──お兄ちゃんは、良い人間かい?』
何もかもがあいまいになっていく中、鼓膜に直接叩き込まれたような明瞭さで聞こえた声に、しかし輝は答えられない。
ただ、小首を傾げて微笑む少女の言葉だけが思考の空白に焼き付けられ、次の瞬間には意識が断絶していた。
プロトコルを確立します_
適応するインターフェイスの特定は完了、最適化処理中*****
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『ダイブ』は問題なく正常に動作を開始しました_