嘘
感情を抱くようになったきっかけを、梶宮はよく覚えていない。
それどころか、最初に感じた情はなんだったのかすら、はっきりと断言できない。
孤独に役目を果たすしかない無気力感か。
かたわらに誰もいない寂しさか。
自らの役目によって結ばれる、地上の男女に対する嫉妬心か。
全てを混ぜ込んだ、言いようのないごちゃごちゃとした感情だったのか。
ともかく。
何かを「思った」瞬間に、梶宮は地に堕ちた。
鉄筋コンクリートの建物が立ち並ぶ、人の流れのただなかに立っていたことを覚えている。
東京。
天から堕ちたその場所を中心に、梶宮は今も地上をさまよっている。
堕天使──それも、恋人同士を強く結びつける、キューピットの堕天使として。
ふらふらと、当てもなく人の波に乗り続ける梶宮に、明確な意思などひとつもない。どこに行こうとか、なにをしようとか、そういう願望を持つことは、いまだにできていない。
かつて、目についた仲睦まじい男女の小指同士を赤い糸で結んでいたときのように、彼の行動に「理由」はない。強いて言うならば、堕天前は天使としての使命に従っていたのだが、その使命がなくなった瞬間、梶宮を突き動かすのは不完全な感情だけだった。
今は、無気力感。そして、ふとした瞬間に湧きあがる嫉妬心。
道行く人々を眺めているうちに、梶宮の目が一組のカップルを捕えた。
十代後半と思しき二人組は、周りに人が多すぎるという点を考慮しても密着しすぎていた。女が男の腕にしがみついているような格好は、ある人が見ればほほえましく、別の人が見たらねたましいものだろう。
そして梶宮は、言うまでもなく後者の側だった。
じわじわと、どす黒い感情が湧きあがる。いくつものカップルを運命的に結びつけた経験のある梶宮は、しかし堕天した今でもひとりだ。人混みの中にいれば孤独感は多少まぎれるものの、かたわらにいるのはいつだって他人。孤独であることに変わりはない。
故に梶宮は、妬む。
愛するものがいる人を。愛してくれるものがいる人を。
その嫉妬心は、堕天使の特性──天使であった頃と正反対の能力を得る──と相まって強いチカラを持ってしまう。
恋人同士を強く結びつける能力の反対。すなわち──
恋人同士の関係に、亀裂を入れる能力。
「……リア充ばくはつしろ」
ぼそり、と梶宮が呟いた瞬間、人混みのあちこちで空気が変わった。
──ある男は、相手にとっての禁句を言ってしまった。
──ある女は、相手に隠しておくべきホンネを口に出してしまった。
──ある男は、相手の友人と付き合っていたことを暴露してしまった。
──ある女は、相手の浮気相手を見つけてしまった。
関係に亀裂が入る音すら聞こえてきそうなほどに、梶宮のチカラは暴力的だった。
通りのあちこちで、大小さまざまないさかいが起こる。どす黒い感情が流れ落ちていき、口元に笑みが浮かぶのを、梶宮はゆったりと感じていた。これほど心が安らぐのは、チカラを解放した直後のみと言ってもいい。
もちろん、梶宮の前を歩いていたカップルにも、チカラの影響はもたらされていた。
必要以上に密着していた女は男から距離をとり、数回何かを言い合ってから、男から逃げるように走りだす。
その女を──正確には十代後半の少女を──見た瞬間、梶宮の顔から笑みが消え去った。
ダークブラウンに染められた髪は、陽光に照らされて水の流れのように輝いている。聞きたくない言葉を聞いたのか、あるいは他の理由からか、まつ毛にふちどられた瞳は涙に潤んでいた。衣服のそでで覆った手で口元を隠しているのは、自分が泣きそうな情けない顔をしていることに気づいているからだろうか。踵の高い靴で走るのに慣れていないのか、足の運びはどこかおぼつかない。
呆ける梶宮のとなりを、女は走り抜けていった。柑橘系の淡い香りだけがその場に残される。
さっきまで女と共に歩いていた男が困ったように立ち尽くしていることすら、梶宮の目には映っていなかった。
女を見た瞬間に感じた、強烈な衝撃をともなう感情に、ただ戸惑うことしかできない。
周りの喧騒も、その大多数を占める男女の言い争いも、どうでもいいもののように思える。
この感情はなんだ? と梶宮は自問する。
分からない。多様な人間を見続けてきたというのに、知っている感情が少なすぎる。
ただ、走っていく女の姿が、脳裏に焼きついて離れないことだけは理解できた。今更のように、梶宮は振り返る。
当然、そこに女はいない。しかし、それでも梶宮は走り出していた。
孤独感を何倍にも凝縮したような「片思い」だと理解するのは、女を見つけられないまま日が沈んでしまった直後のことだった。