ユグドラシル・シティ
肋骨と胸骨を噛み折って、狼の牙が心臓へと至った。
意識が揺れる。青年は頭を振って叩き込まれる情報をいくらか遮断しようとしたが、さして意味はなかった。
鼻からは血臭、死臭。
眼下では、狼が死体の心臓を貪っている。左右に立つ高層ビルの根元は飛び散った血液で赤く塗れ、死体の山から流れる血の川はアスファルトにすら沁み込んでいきそうな水量だ。
白い毛皮に覆われた扁平な後頭部が動くたび、粘性のある音が鼓膜を震わせた。
思わず右手で両目を塞ぐ。そのまま空をあおぎ──
「たまんねぇなぁ」
吊り上がった口の端から、囁くような声をこぼす。
青年の体は返り血に濡れていた。まとった服は元の色が分からなくなるまでに赤黒く、頬や手の甲に飛び散った血はすでに乾いている。
唯一、青年の頭部をおおう白髪と、左腕から生えた白狼の頭部だけが、血をあびることなく異色を放っていた。
白狼が心臓を咀嚼するたび、その味が左腕から流れ込んでくる。そこに鉄臭さなど全くない。
脳髄を揺さぶる甘美な味覚。知性や理性など、壁の役割を果たさない。本能に直接叩きこまれる原初の衝動が、禁忌を犯せと囁いてくる。
──カニバリズムに目覚めそうだ。
左手で死体を食い荒らしながら、青年は細く息を吐く。幾度となく感じた「心臓を口に運びたい」という欲望を捻じ伏せ、何度目かも分からない疑問を胸に抱く。
ヒトの心臓がこれだけ美味ならば、神の心臓はどれほどの味なのだろうか?
「……フェンリル」
答えの代わりに、青年を呼ぶ声があった。
声量は低い。しかし芯の通った意志を感じる、聞き取りやすい声音だった。白髪の青年──フェンリルは視線を下げ、声の主に目を向ける。
積みあがった死体の上から見下ろすと、フェンリルを呼んだ男はちょうど血だまりに足を踏み入れたところだった。腰に提げた剣と足元をおおう革製ブーツは使い込まれているが、黒いパーカーとジーンズパンツは真新しい。
フードを目深にかぶり、口元をネックウォーマーで隠した男の顔は、辛うじて目元が見える程度にしか露わになっていない。それでも、鮮やかな青の瞳はフードの影にあってなお強い存在感を放っていた。
視線に射抜かれる。
敵意と殺意にまみれた目を前に、フェンリルはようやく死体から左手を離した。白狼の口元は、血に濡れて重く貼りついている。
しかし、口調は極めて軽く。
「初めまして、だなぁ。我が天敵」
「お前にとっては、そうなるんだろうな」
「ん? ──あぁ、そうか。お前は生き延びたんだったな、ヴィーザルよぉ」
フェンリルは左手を持ち上げ、顔の横で狼の顎を開閉させる。グロテスクな指人形に合わせ、言葉が続く。
「覚えてるぜ、左手が。上顎と下顎を引き裂かれる感覚」
「あの日に全てが終わってくれれば、お互いに幸せだっただろう」
ヴィーザルは情報の断片しか口に出さない。その穴埋めを、フェンリルは頭ではなく左手で行っている。
左腕から生えた白狼の頭部に、意志のようなものはない。ただ、狼の脳に刻み付けられた記憶だけが、神経を通してフェンリルの脳に伝達される。
狼の記憶から、ヴィーザルの名を読み取るのはたやすかった。
神すら殺した狼自身を、武器すら使わずに屠ってみせた男の名だ。記憶に焼きついた名前と顔と感情は、読み取っているだけのフェンリルすら戦慄するほどに強烈だった。
今すぐ首を噛み裂いてやりたい、という衝動をこらえ、フェンリルは肩をすくめる。
「仕方ねぇよ。ユグドラシルがラグナロクを生き延びたっつぅんなら」
次いで、右手の親指を背後に向ける。
フェンリルの背後、高層ビルの隙間から見える空には、それらを優に越える樹高の巨木が大きく枝を広げていた。
ユグドラシル。かつて三層世界を支えていた世界樹は、ラグナロクの終焉と共に焼け落ち、今の世界の地盤となったはずだった。ヨルムンガンドの毒とスルトの炎によって死んだと思われていたユグドラシルは、どうしてだか極東の島国で芽吹き、成長して、生き返った。
「……『世界樹が再び根をおろしたとき、その枝の下で予言は繰り返される』」
剣を抜きながら、ヴィーザルは坦々と告げた。
「ラグナロクを生き延びる俺とヴァーリに託された、巫女の予言だ。そして、それは実現しようとしている。ユグドラシルの元で産まれた人間の子には神々と巨人と狼の魂が宿り、ヒトならざる力を持ち始めた」
空の支配権を広げたユグドラシルは、その枝で一国の首都を包み込むように成長を続けている。神々しくも不気味な大木の支配圏はやがて、「東京」から「ユグドラシル・シティ」へと名称を変えていった。──その下で産まれる、異様で異常な子供たちを隔離する場所として。
最終戦争の舞台は整いつつある。
「──ただし、もう一度同じようにラグナロクを終わらせるつもりは毛頭ない」
「同感だ」
──ラグナロクにおいて。
フェンリルは主神オーディンを食らい、その直後、ヴィーザルに上顎と下顎を引き裂かれて殺される。凄絶な最期だ。記憶を読み取るたび、左手がちりちりと痛むほどに。
あんな痛みは、感じたくもない。
「もう一度殺してやろう、フェンリル──今度は、オーディンを食らう前に」
「そりゃあ困るな。お前の心臓に興味を持ち始めたところなんだから」
白狼の顎に右手をそえて、フェンリルは囁く。
そのまま開かれた狼の口に手を差し入れ──抜刀。赤々とした口内から、血色の刃を持つ大剣が姿を現した。
材料は人の心臓。女巨人の心臓を食べて三人の子を産んだ白狼の父親と同じ方法で、フェンリルは自らの得物を産む。
「ロキのようなことをやってのけるな、獣風情」
言葉に棘はあるものの、ヴィーザルの口調に揺らぎはない。
彼の性質は冷静沈着で寡黙。故に、坦々と自らの責務を果たして一度目のラグナロクを生き延びた。
そのことならば、フェンリルも痛いほど分かっている。左手の狼から流れ込んでくるのは、獰猛な殺人衝動だけではない。冷静さを保った警句が、じわじわと染み渡ってくる。
予言はバカにすることができない。ヴィーザルはフェンリルの天敵である──と。
「久々に神の肉が食えるなら、できる真似事はやってみせようじゃねぇか」
しかして。警句を無視してフェンリルは言い放つ。
ヴィーザルとの戦いになれば、殺すか死ぬかの二択になることは目に見えている。決着がつかないまま戦いが終わるには、第三者からの介入か何かが必要になってくるだろう。相手はフェンリルのことを殺しにかかってくるだろうし、それはたとえ一度逃げ切ることができたとしても変わらない。
となれば、どうするか。
──最初から、全力を出せばいいだけの話。
「二回目のラグナロクは、ちょっとばかし勝手が違うぜ?」
最終戦争の前哨戦が、今まさに始まろうとしていた。