トウキョウ・サーガ

 空浪誓(からなみ せい)は、犬が苦手だ。

 彼が二十年間生きて、その中途で考えが覆ったことはない。考えが覆るきっかけすらなかったと言ってもいい。

 散歩中の犬に出会えば吠えられ、外で犬を飼っている家の前を通れば吠えられ、犬を飼っている友人宅にあがりこめば吠えられ、ペットショップに入ってみれば吠えられる。誓に対して有効的な態度を示す犬などどこにもいなかったし、故に誓自身も犬が苦手になった。

 無論、そんな体質も苦手意識も、彼の人生に支障をきたすものではない。

 犬が苦手、というだけで、アレルギーのようなものは持っていない。苦手ならば近寄らなければいいだけの話。わざわざ嫌いなものに近づいていくような、ネットの荒らしみたいな面倒な性質は持っていないのだから。

 ──とはいえ。しかし。だからといって。

「これは……どういう状況なんでしょうかね?」

 ひくり、と口の端を引きつらせながら、誓はひとり呟く。

 彼の前には、十匹を越える数の狼が立ちふさがっていた。

 狼。言わずもがな、犬の祖先と言われる種である。違いといえば「人と共生するのに適しているか否か」程度のもので、それによって誓の苦手意識だとか恐怖心などのマイナスイメージは決して払拭されない。野性を失った犬よりも迫力のある唸り声を聞けば、むしろ増幅する一方だ。

 もちろん、狼の群れと対峙したときの対応法など、誓は知らない。

 害獣駆除などの影響で、狼は日本から住処を奪われた。ロシアやヨーロッパの森林地帯ならばともかく、日本の首都・東京──それも、ビルの乱立する東京東部で狼の群れに遭遇するなど、通常はありえない。

 つまりは、異常。

 わざわざ科学的に論じるまでもなく、誓の陥っている状況は、紛れもなく異状だった。

 かといって、狼の群れは、唐突に誓の前に現れたわけではない。

 犬が嫌いであろうとも、犬に嫌われていようとも、誓には狼と対峙するだけの理由があった。

 その理由は、群れの向こう側、薄汚れたコンクリートの上に横たわっていた。

 高校生と思しき少女である。見た限りでは外傷もなく、胸が上下する様から見ても呼吸はしているらしいのだが、金髪で半分隠された顔は血色がよくない。

 気絶した少女を、狼の群れが囲んでいる──そう気づいたときに、誓は逃げ出すことなく少女を助けようとしてしまったのだった。

 ──我ながら、妙なところに首を突っ込んでいるとは思うけれども。

 状況は悪い。障害である狼への対処方法もなく、救護対象である少女は気絶していて動けない。助けを呼ぼうにも、「女の子が狼に囲まれている」では信じてくれる人間がいない。

 それでも、今更逃げ出すわけにはいかなかった。逃げたとしても、狼たちを振り切れるとは思えない。彼らの狩りは、群れで連携して獲物のスタミナ切れを待つ持久戦なのだ。

 対して、抵抗の手段ならばそれなりに考えがあった。首を守り、噛まれた場合は引かずに押す。反撃で狙うは鼻か尾。それで群れのリーダーでも弱らせることができれば、それこそ一発逆転のチャンスがないとも限らない。

 拳を握る。息を吐き出す。張り詰めた狩りの空気を感じる。

「やるしかない、か」

 空浪誓は腹をくくった。