これはじんもんです
ギシ、と木材の軋む音がした。
冷たい床を頬に感じながら、男はゆっくりと目を開ける。体を横倒しにされ、両手は背中の後ろにまわした状態で親指同士を結ばれていた。側頭部には硬いものが乗っていて、目の前に足が見えることから土足のまま踏まれていることが容易に想像できる。
わずかに身じろぎすると、足は思いのほかあっけなくどかされた。
「起きたか。はやかったな」
降ってきた声に反応して視線を上げるも、声の主は見えない。
最初から地面についていた方の足の向こう側に、細い木製の棒が見える。そろえて折りたたまれた自らの足付近、膝の裏側に当たる部分にももう一本。体の上には小さな天板がある。
どうやら、声の主は木製の椅子に座って男の頭を踏んでいたようだった。体重が移動したのか、木材が危なげにギシギシと音をたてる。
「もう五分くらいは気を失ってると思ったんだが。頑丈な体をしているらしいな」
悠長に言ってのける声に、男は何も言い返すことができない。
両手は塞がれ、椅子の足で行動を制限され、床に倒れた状態だ。反撃に移るどころか、立ちあがることさえ難しい。
可能な限り視線をめぐらせると、男のいる部屋は捨てられた廃屋の一室のようだった。置き去りにされた家具類が打ち捨てられ、埃の膜が全体を覆っている。ところどころに引き摺ったようなあとが残っているのは、数年ぶりの侵入者である声の主のものであろう。
しかし、不可解なところがあった。室内の様子ではなく、声の主が座る椅子のことで。
視界に入る椅子の足は二本。もう一本は男の背後ろにあるとして、最後の足はどう考えても男の首の上に、
「ひっ──」
男の首の上に、半ばほどで折れた椅子の足があった。
力づくで折られた木材は木目に沿って割れるため、断面には数本のトゲが生じることになる。断続的に鳴る木材の軋む音は、三本足になった椅子が声の主の体を支えるのに尽力していたからだろうか。
自由にならない体を動かして逃げようとする男を嘲笑うように、声の主は男の頭を再度踏みつけて椅子を軋ませる。
「現状の把握は完了したか?」
その顔に貼りついた笑みすら幻視しそうなほどの、楽しげで嗜虐心に満ちた声だった。
椅子が軋んで悲鳴をあげるたび、男は首筋にトゲが触れるようなむずがゆさを感じる。目に見える刃物を突きつけられるよりもよほど質が悪い。
ナイフ程度の小刀には慣れている男だったが、普段は凶器として意識しない椅子の断面を向けられ、さらに刃の接近も視認できないとなれば。
聴覚に頼るしかない男の耳に、木の軋む音だけがよく響く。両耳が塞がれていないのは、確実に声の主が狙ってのことだろう。
男の胸中で恐怖が渦巻く。首筋に、あるはずのない感触を感じてしまう。トゲが近づいているのではないか──それどころか、触れているのではないだろうか。皮膚を食い破ろうとしているのではないだろうか。
確かに、今の男の体はアバター……ただのデータであって、現状だって極論すれば単なる疑似体験にすぎない。けれど、しかし、だからといって、精神に揺さぶりをかけられれば、「首を切られても死なない」なんていう事実は意味を持たない。この世界──デュランダル・オンラインでは物質が全て0と1の羅列で組み上がっている代わりに、プレイヤーの精神だけが生身のものとして存在している。
死んだからといって、二四時間ログイン不可のペナルティーはあれど、生命活動に支障をきたすものではない。そんなことは男だって分かっている。理解は、している。──けれど。
「先に言っておこうか。言いたいことはたくさんあるんだろうが、その大半は聞き飽きた言葉だろうから言っても無駄だ。『雇われただけだから』なんて理由で優しくしてやれるほど他人に都合のいい性質ではないものでね」
「が──」
さらに、男の側頭部にかかる重量が増す。
床と挟まれた頭蓋が悲鳴をあげ、同時に首筋にささくれのようなトゲが触れた。少しでも動けば椅子に座った声の主がバランスを崩し、そのまま男の首に木材が突き刺さることもありえる──男が荒事に慣れているとはいえ、今の状況は異様すぎた。
死を突きつけられていながら暴れることもできず、苦痛と恐怖に耐える男に対し、支配者となった声の主は涼しげに言う。
「お前は雇われて俺に手を出してきただけだろう? 他のやつらと違って『ガイア』に手を出さず、俺に直接危害を加えようとしたところは褒めてもいい。一言で答えられる問いで許そう──誰に金を積まれた?」
もはや恐ろしい情報しか収集しない耳を潰したいとすら思いながら、男は後悔する。
学者風の青年を殺すなどたやすい仕事だとたかをくくっていた過去の自分を、今すぐ殺して楽にしてやりたいくらいに。
しかし、その程度の絶望では終わらず──声は容赦なく男の逃げ場をなくしてしまった。
「カフェインが切れるまでに答えろ。でなけりゃ強制ログアウトだ。いいな?」