陰鬱デイリーライフ
「テレビ、面白いの?」
ゴシップ情報をバラエティのように「報道」する情報番組を背景に、私は問う。
投げかけた相手である母は、「そりゃね」と素っ気ない返事をこちらに寄越してきた。その視線がテレビ画面から外れることはなく、私よりも芸能人の不倫情報の方が彼女にとっては重要らしい。
これほどどうでもいい情報もなかなかないと思うのだが、母は私と同じ考えを持っていないのだろうか。いや、そんなことはわざわざ疑問に思うほどでもないないくらいに明らかではあるのだが、それでもどこか寂しく感じるのは仕方がないはずだ。なんてったって肉親と分かりあえていないのだから。
食卓に並ぶ食事を手早く胃袋に入れて、すぐに立ちあがる。家の中……それもリビングにいるというのに孤独感すら感じる現状ではあるが、半ばほど諦めてもいた。
家族といえども、突き詰めて考えれば他人だ。不快な思いを続けながら食事をするのも気分が悪い。
「じゃあね」
とりあえず、といった感じで声をかけて、私はリビングを離れて自分の部屋に向かう。
私が母と相容れなくなったのは、決して今に始まったことではない。母は昔からゴシップが大好きだったし、私は昔からゴシップが嫌いだった。
それだけではない。母は他人の不幸を見て幸せになれるタイプの人間なのだ。……といえば、何か精神的な異常があるのではないかと疑われそうだが、これはむしろ普通なんじゃないだろうか。
不幸が大好きな人間は意外と多い。周知の事実かもしれない。なにせ、よくマスコミで取り上げられるのは人の幸福ではなく人の不幸なのだ。取り上げられる情報も、製作されるフィクションも。新聞、テレビ、雑誌、インターネットのメディアも問わず。
そういったものを見て、素直に楽しむことができないのが私だった。そもそもどうやって楽しむのかすらもよくわからない。
感情移入しすぎて──というのも、少し違う気がする。
たとえて言うならば、「学ぶこともできない人だっているんだから、まじめに勉強しなさい」とか、「働くこともできない人だっているんだから、我慢して働きなさい」と言われるのと同じことなのだと思う。他人の不幸を見て、「あぁ、私は幸福なんだな」と思えるほど、私は他人本位に生きていない。私が不幸だと思えば、他人なんて関係なく、私は不幸なのだ。
他人がどれだけ悲惨な人生をおくっていたって、私には日常を疎ましく思う権利くらいはあるんじゃないだろうか。
誰かが学べないことを悔やんで泣いていたって、私が机に向かい続ける理由にはならないんじゃないだろうか。
生きたいと願う人がいたとして、死にたいと願う人がいたっていいんじゃないだろうか。
悶々と思考回路をまわしながら自室の扉を開くと、冷えきった空気が私を刺した。つめたい。私にとってあたたかいところなんて、この家にはどこにもない。
本棚から文庫本を取り出して、椅子に腰かける。参考書やら問題集やらをどければ、机の上にある程度のスペースを確保できた。
しおりを挟んでおいたページを開いてみれば、目で追える活字だけが、私を拒絶せずにそこにある。ただ、薄っぺらな文庫本は分厚い参考書に比べてみればかなり頼りなかった。