飯綱使いと狐の面
満月の浮かぶ、秋の夜のことだった。
町と町の間を通る、小さな川の両岸に広がる水田地帯の隅。稲を植えるにも狭すぎて使えない余りものの空き地に、ススキが茂っていた。
その傍らに、帰宅途中と思しき学生服の少年が立ち尽くしている。
周囲に街灯はない。主要な光源は、夜空から降り注ぐ月明かり。人工的な光は少し高いところにある住宅街からこぼれる灯か、遠くを走る国道の光ぐらいのものだ。それほど広くはないとはいえ、田園に囲まれた場所なのだから仕方のないことではある。
少年・菅野伊砂(かんの いすな)は、この暗い帰り道を気に入っていた。
多少物騒ではあるものの、月や星を見れるという点では、他のルートを使って帰るよりも優れている。ひったくりのような被害を受けないとも限らないが、そういった犯罪行為であればどこを通っていても遭遇するときは遭遇する、と伊砂は思っていた。
思っていたのだが。
「──よい月だね、少年」
夜風に染み入るような、それでいて耳に残る声で、女が言った。
狭いススキ野の中心。伊砂が凝視する先に、「それ」はいる。
目の覚めるような赤をまとった女だった。
真紅の着物を着流し、片手に濃紺の扇を携えた、年齢不詳の女だった。
艶やかな黒髪にも、白磁の肌を持つ手指にも、老いは微塵も見られない。けれど、顔を覆った狐の面が、容姿だけで年齢を悟らせないような──得体の知れない、科学を超越した存在であるかのように思わせる。
伊砂の肌は、女を見たその瞬間から粟立っていた。
犯罪に遭遇するのは、どこを通っていても同じだ。罪を犯そうとしている人間に出会うのは、人間の通る道であればどこだってその可能性がある。
けれど──まさか、人ならざるものと遭遇するなんて。
「いや、本当によい夜だ。満月の下で、久方ぶりに人と会うことができるとは──少年、緊張しなくとも、私はとって食ったりはしないよ」
伊砂の硬直を緊張ととった女は、肩を揺らして愉快そうに言った。
表情は窺えないものの、仕草も口調も人間的で好意的。それでも伊砂が女に恐怖を覚えてしまうのは、女のことを「異常」と捉えてしまうからで──事実、
「……あんたは、なんなんだ?」
そう、伊砂が問いかけてしまうほどの異常が、女には生じていた。
少し意識を反らすだけで、伊砂は女の姿を見失ってしまうのである。
女の背後にある月に焦点を合わせたり、女の足元に茂るススキに目をやったりするだけで。
流れる黒髪も、鮮やかな赤い着物も、朱の入った狐の面も、何もかもが見えなくなってしまうのだ。
幽霊か何かだと、思われてもおかしくはない。
「私は、キツネさ。くだぎつねだの、人狐だの、飯綱(いづな)だの、聞いたことくらいはあるんじゃないか? 『キツネが人を化かす』とか、そんな話でもいい。『百年生きたキツネは女に化けて男を騙す』でもいい。つまり私は、そういうものさ」
言い終えると同時、女はぴしゃりと音をたてて扇を開いた。
面で覆われた顔をさらに扇で隠し、首を傾げてみせる。
「まぁ、今の私は主人を持たない従者だからね。妖怪とはいえ、人をとって食えるほどの力は持っていない」
「妖、怪……」
非現実的な話だった。
伊砂がそう思ってしまうのは、非科学と非現実をイコールで結びつけてしまうからだろうか。
獣であるキツネが人を化かすだとか、たかだか十年程度の寿命しか持たないキツネが百年も生きるだとか。
科学的に見れば女の言葉はただの妄言。でまかせ以外のなにものでもない。
──けれど、伊砂が「妖怪」と聞いた瞬間に、忘れていた何かを思い出すかのような、足りないものを見つけられたかのような、妙な安心感を覚えてしまったことも、また事実だった。
「妖怪」というカテゴリは、この女に酷く似合っている。
「しかし、開口一番に投げる問いがこれとは。君は本当に素質のある人間のようだね、少年」
そう言った女の声音に、嫌みは含まれていなかった。
かといって、感心しているだけと断言することはできない。何か、もっと別の──狐の面でも、扇でも隠すことのできない、歓喜の笑みが含まれているような声音だった。
伊砂は、無意識の内に手を握り締めていた。背筋を走る悪寒は止まらないのに、いつの間にか掌は汗に濡れている。
今すぐ女から目を離して、家路を走りたい気分だった。意識を反らせば女の存在を知覚できなくなるのだから、それで伊砂は逃げ切ることができるはずだった。
──恐怖や緊張だけを、感じていたら。あるいは逃げられたのかもしれない。
「独りになって早百余年……失われた飯綱使いの血は、戻らないと思っていたよ。少年。……私の主になってはくれないだろうか?」
長き孤独の中にいた女の声は、この時だけなぜか酷く弱々しかった。