たたかうコックさん
世界が白く染まっていた。
横殴りの雪が、針葉樹の森に叩きつけられる。
少しでも肌を出せば、「寒さ」や「冷たさ」よりも「痛み」を感じるほどの猛吹雪の中──真っ白な布を全身に巻きつけた人間が一人。
たった独りで佇んでいた。
真っ白に染まった世界で。
真っ白な色をまとって。
真っ白な毛皮を持つ獣を前に。
「…………」
互いに、自らの姿を隠すようなことはしていない。
視覚も聴覚も嗅覚も阻害する吹雪の中、思いがけない遭遇をしたのは両者ともに同じだった。
人間は──男は、肌に冷気が突き刺さるのも無視して、目元の布を少しだけ下げる。
獣は、左右に広がる巨大な角を持っていた。その下、白の体毛に覆われた体は、体高二メートルを越える。水草や苔を食べるのに適した口は扁平。厚い脂肪に覆われた首はがっしりと太く、対照的に脂肪のない脚が細く見えてくるほどだ。
この大きさなら五〇〇キロを越えるだろうな、と男はぼんやり思考する。
レイエルク。
北方の山脈に生息するこの種は、近隣の住民から「森の神」とも呼ばれている。
大木の枝を思わせるこげ茶の角も、雪にまぎれる白亜の毛皮も、大人でも見上げるほどの大きな体も、「神」と呼ぶにふさわしいだろう。少なくとも、何も知らない人間が何の準備もなくレイエルクに遭遇すれば──そして、レイエルクに「敵だ」と判断されれば、命を落とすことは確実だった。
腰に吊った得物の位置を男が確認した瞬間、レイエルクは前に向けていた角を高く掲げた。
風が渦巻く。こげ茶の角が光を放つ。
──空気中に満ちる魔力を扱うのは、人間だけではない。
「魔法を使う」まではいかないものの、「魔力が存在する」環境に適応し、活用するまでに至る程度ならば、進化の過程で幾通りも発生する。
たとえば、長距離を飛行する渡り鳥が、風を操って肉体的負担を軽減したり。
たとえば、狩りに出かける肉食獣が、水を凍らせて子供のいる巣穴を塞いだり。
レイエルクの場合。
魔力を扱う器官は、その巨大な角だ。
──こげ茶の角が、炎を発していた。
魔力がレイエルクの元に集められた影響で上昇気流が発生している。巻き上がった雪は炎によって溶け、白い毛皮に付着。蒸発して湯気となる。
松明を掲げる白い獣。
見る者に畏怖の念を抱かせる「森の神」に、男は人差し指を向けた。その周囲でも、風が動く。
魔力が人体を通過して法力が発生、男の言葉で魔法が発動する。
「〈地を這え。火の中に生まれ、火の中に生き、火の中に死にゆくものよ。汝は火と共にある。──否、汝は火である!〉」
何重にも巻かれた布の奥から、男の声が放たれる。
応えるように、レイエルクは掲げていた角を前へ。豪脚が雪を蹴る。
彼我の距離は数メートル。回避など間に合わない。
「〈汝の名は【火蜥蜴】!〉」
細い火は、男の指先から。
数匹のトカゲの形をとり、火は地面を走る──積もった雪を溶かしながら。
精密に、男の設計図通りに、トカゲたちは動き回る。
すでに加速していたレイエルクは、【火蜥蜴】の作った急造の落とし穴を避けられない。勢いそのまま、まずは前肢が雪に埋まる。
重さに引きずられ、後ろ足まで落ちてしまう前に、男が動いた。
半狂乱になって頭を振り回すレイエルクの角をかいくぐり、右手に掴んだ得物を──クレーバーと呼ばれる鉈を引き抜く。四角形の刃が、火に照らされて橙に染まる。
獲物を火で仕留めれば、「食材」としての質が落ちる。
男は狩人としてではなく、料理人として、そう思っていた。
【火蜥蜴】の動きを、落とし穴作成から陽動に切り替える。目の前を飛び交うトカゲに気をとられ、無秩序だったレイエルクの動きが徐々に読みやすいものに変わってきた。
レイエルクの目が【火蜥蜴】を追う。炎をまとった角と【火蜥蜴】がぶつかりあうたびに火花が散り、閃光が散る。
その合間で、男が動いた。雪を蹴り、【火蜥蜴】の作った落とし穴を避けてレイエルクへと接近。振り回された炎の角をかいくぐり、無防備になった首へとクレーバーを叩きつける。
厚く重い刃が脊椎を砕き、レイエルクの命を絶ったと同時、角からは炎が消えた。
周囲を照らすのは、小さな【火蜥蜴】だけとなり──炎にあおられていた叩きつけるような吹雪が戻ってくる。
「……帰ったら、これでポルハチでも作るかぁ」
遭難の半歩手前に近い状況で、男は現実逃避のように呟いた。