ゾンビにだって意地はある。
「──逃げなさい、慎也」
悲痛な声は、慎也の背後から聞こえた。
名を指して示された命令であるから、絶対に従わなければならないはずなのだが、慎也は聞こえなかったふりをして前を見た。
夜の森に、光はほとんどない。
けれども、人ならざるもの──生ける死者となった慎也は、視界を確保するのに多くの光を必要としない。わずかに入りこんでくる月光を捉えられれば充分だ。
とはいえ、現在、その暗視能力による優位性はない。
木々の隙間に立ち、慎也と対峙しているのは、アメミットと呼ばれるバケモノだった。四足歩行の獣型。ワニの頭とライオンの上半身、カバの下半身を持つそれは、「死者を喰らうもの」と呼ばれるような、至極物騒な存在だ。
アメミットに心臓を食われれば、生命の魂は消滅する。
転生の輪から外れる、絶対的な死が、その先には待っている。
そうなれば、死霊術を駆使しても生き返らせることはできない、と慎也の主──リンネは言った。死霊術師ができるのは、死んだ体に魂を留めさせることであって、魂を修復することではない、と。
つまりは、アメミットに襲われてしまえば生者も死者も関係なく「完全に死ぬ」ということなのだが、そうだとしても慎也は主の命令に従う気など欠片もなかった。
「逃げなさいと、言っているでしょう……!」
二度目の命令が飛ぼうと、慎也の心は揺るがない。
姿勢を低くして臨戦態勢を取るアメミットを前に、慎也は軽く後ろへ目を向ける。
木の根元に寄りかかるようにして、リンネは座り込んでいた。肌は蒼白。いつもは冷気すら漂わせそうなほど澄ましている顔は、今は苦しげに歪められている。
色気のないグレースウェットの胸を掴み、咳混じりの呼吸を繰り返している姿を見れば、体調不良はすぐに察することができた。
「あなたがアメミットに勝てるわけ……ないでしょう。無駄死にしたいの?」
苦しげに言葉を吐きながら、リンネは慎也を睨みつける。
普段は体がすくむほどの迫力を有するそれも、慎也は悠々と受け止めてみせた。
そして、繰り返される命令を、無視する。
同時に、リンネの命令は本心からのものではない、と確信していた。
──上っ面だけの命令は、どれだけ名を指し示したって、効力を持たないのだから。
「あれの飼い主を潰せば、その呪いもなくなるんだろ」
慎也は、前を向きなおす。
自らの体と命を保っているものでありながら、慎也は死霊術について詳しくない。
それでも、術者を倒せば術式は解除される、程度のことなら分かっていた。
ここでリンネを見捨てれば、彼女の術式で生きている慎也もいずれ死ぬことも。
リンネに呪いをかけた人物と、アメミットをけしかけた人物が、同一であることも。
リンネが、たった今、恐怖を感じていることも。
「簡単に、言うけどね……っ」
「複雑ではねぇよ。俺でも分かる」
「ふざけてる場合じゃ」
「心臓だけ守っていればいい」
言って、慎也は拳を握る。
彼には、心臓以外の臓器がない。心臓は魂の器でしかないから、血液もない。
魂と共に心臓に埋め込まれた、死霊術の術式で動く『生ける死者』だ。
「手足の一本や二本、食われてもまた生えてくる」
言って、慎也は足を踏み出す。
アメミットに対する恐怖心は、不思議と薄れてきた。
戦うにしても、守るのはたった一つの心臓と、背後の主だけだ。
頭も首も腹部も守らなければならず、手足が欠損しても修復しない生者よりはマシだろう。
それに。
「つーか、主を守らないで従者が務まるかよ、バカヤロー」
言って、慎也は──カーゴパンツのポケットから、スティレットを抜いた。
護身のため、と言って渡された刺突用の短剣が、どこまで通用するか分からないけれど。
慣れない戦闘を制することができるかどうか、危ういけれど。
退けない理由ならあった。
それだけで充分だった。
「テメェの下僕だろ。ちょっとくらいは信じろや、ご主人サマよ」
言い捨てて、慎也は地面を蹴った。