休み時間の消失
休み時間は貴重だ。
五十分間の退屈な授業の間の、たった十分間のインターバル。
それは教師の催眠術が生徒たちから解かれる短い時間であり、その間に机の上を片付けたり、教室移動があったり、何かを忘れたときには他のクラスに借りに行ったりするものだが──
そんな、黄金のように価値のある休み時間に、決まって嵐のようなヤツは訪れる。
訪れる、というか、湧いて出る。
「野球拳しようぜ」
振り向きながら嵐のようなヤツもといバカが言ってきたのは、授業を終えた教師が廊下に出ていったときで、僕がノートと教科書を机の中に突っ込んでいたところだった。
次の授業は特に教室移動があるわけではないので、つまりはそこそこ余裕のある休み時間。
ではあるが、野球拳などという馬鹿馬鹿しい行為をしていたらあっという間にすぎてしまって、次のチャイムが鳴る頃に慌てて制服を着なおすことになるだろう。教師の視線が痛いことは容易に想像できる。というか、その前に、クラス内の視線が痛い。
そんな感じで愚かしいことこの上ない提案なので、まずは落ち着いて次の授業──日本史の教科書を出す。生徒が教科書を読み上げるという、意味不明のイベントが頻繁に発生する授業では必須のアイテムだ。家に忘れていなかったことに少し安心しながら、右手でグーを準備。
マンガの主人公よろしく、
「野球拳ッ!!」
技名じみたものを叫んで、お望み通り、バカの顔面に拳を叩きつけた。
「野球拳」はそういう意味じゃない、という反論は、何があっても受け付けない。
世界が滅んでも受け付けない。
「そういう意味じゃない……」
鼻を押さえながら言われても受け付けない。
重要なのは「野球拳」の意味じゃない。目の前のバカのバカさ加減だ。
と、思っていると、殴られたい願望のある真性のドMが弁解を始めた。
「違う、間違えただけなんだって。男と野球拳やったって楽しくないって」
「じゃあ、なんて言おうと思ったんだ」
「野球しようぜ」
ドMじゃなかった。ただのバカだった。
バカにつける薬はないので、とりあえず、もう一発野球拳をぶちかましておいた。
またもや鼻を押さえてうずくまることになったバカを見下ろし、ため息混じりに。
「寝言は授業中に言えよ。間違えた、授業中に寝て言えよ」
「授業時間イコール睡眠時間なのか、お前は」
「お前も大概寝てるだろ」
「あぁ……、確かに」
今気付いた、というような答え方だった。
つうか、肯定するなよ。カマかけただけだったのに。
僕自身いつも寝てるから、誰がいつ寝てるなんてこと分からなかったのに。
とかいうことを考えていると、僕もなかなかバカだなぁと思う。授業中は寝てるか落書きしてるか。日本史の教科書にある写真は、九割落書き一割アートになってるはずだ。
教科書をめくると、どんな落書きをしたかは思い出すけれど、肝心の歴史的内容はまったく頭に入ってこない。
僕が教師だったら泣けてくる状態だ。部屋の隅で膝を抱えるレベル。
なんて思っても、改善なんてしないのだけれども。
「いや、でもさ、野球したくね?」
バカは周りがどう頑張っても懲りてくれないらしい。
「十分でか。十分で三階から校庭に出てチーム組んでポジション決めて野球やって三階に戻って来るのか。物理的に無理だ」
「そこは気合いで」
「気合いで物理法則を捻じ曲げるな!」
テレビゲームの野球だって十分じゃ終わらねぇよ。
バカというよりは、もはや僕の知らない生物の考え方をしている。
しかも、タチの悪いことに、僕のテンションが下がると反比例的にバカのテンションは上がるようだ。謎の思考回路を有する、ヒトに似た生物は、突然立ち上がって両手で拳を作って叫びだした。
「どうしてそこで諦めるんだよ!」
いや、もう、諦めろよ。
ヒトとして生きるのを諦めろよ。
僕も、お前をヒトとして扱うのを諦めるから。
と、達観した目で「謎の思考回路を有する、ヒトに似た生物」略して「謎の生物」を眺めていると、「頑張れ」だの「できる」だの叫んでいた謎の生物が突然黙りこくった。
どうやら、こちらの視線に気づいたらしい。
「…………なにその冷たい目」
「いや、別に。日本史の教科書持ってきてんのかなぁって」
謎の生物が動きを止めるのとほぼ同時に、チャイムの音は鳴り響いた。