いと
ふと、右手の小指を見てみると、第一関節のあたりから細い糸が伸びていた。
何を言っているのか分からないって?
安心していただきたい。俺もだ。
別に受けを狙って話を作っているわけじゃあない。そもそも、「小指の第一関節から糸が伸びているんだが」とか言われても、笑えないし面白くもない。もしもこんな話を受け狙いでする人間がいるとしたら、そいつはギャグセンが決定的に終わっている。
だから、安心していただきたい。
この話は、百パーセント混じりっ気なし冗談抜きの真実。
俺の小指の第一関節のあたりから糸が伸びているんだ。マジで。
………………。
オーケー、ちょっと精神科(びょーいん)に行ってくる。
◇・◇・◇
行くわけがないのだけれども。
とりあえず寝てみたのだけれども。
この世の大半のことは眠れば解決する。
なんて言うと、こいつ馬鹿なんじゃねえのと思われても仕方ないとは思うのだがしかし、誤解なきよう話すとすれば、この世の大半のことは時間がどうにかしてしまう。と、なんだか哲学めいたことでも言っておけば誰かしら聞く耳を持ってくれそうな気がする。
小二くらいの時の話だ。
俺は、眠らなければ明日は来ないと思っていた。
夜はすごく長いもので、暗くてなんだか怖いものだと思っていた。眠るという行動が、明日へ高速で移行するためのトリガーだと思っていたのだ。
早送りのスイッチ的な。
しかもそれは俺が「眠る」ことが前提で、今思えばなんて自己中なガキだったんだろうご両親ご近所様方このクソガキがさぞ憎かったことでしょう心中お察しします状態である。
で、
そんな俺が夜更かしをし、更に一晩寝ずに過ごすというイベントがあった。
詳しい理由は忘れたが、たしか近所に住んでいる同級生とケンカしたか何かでカムチャッカインフェルノになってしまった俺は極度の興奮状態に陥り、寝付くことができずに夜を明かした的な流れだったと思う。
その時は、お前が! 泣くまで! 変な噂の吹聴を! やめない! という、徹底抗戦の構えだったのだが、時間が経つにつれ、ああ俺にも落ち度はあったよなー謝っとくかなーなんて考えるようになっていて、気付いたら朝だった。
そんな感じで俺は悟った。
時間というのは、経過することによってなにかを変化、または風化させてしまうのだと。眠ることが明日へのトリガーになっているわけではなく、時間の経過が夜を朝に変えたのだと。
歴史的建造物だって、感情だって、モラルだって。過ぎゆく時間がどうにかしてしまうのだ。
だから、眠ることで時間の経過を図ってみた。
……………………。
聞いてくれ。
俺の小指の第一関節のあたりから糸が伸びているんだ。
……………………。
オーケー、ちょっと立ち読み(げんじつとーひ)してくる。
◇・◇・◇
近くのコンビニで週刊誌の立ち読みをしていると知り合いに遭遇する確率が格段に上昇する(俺調べ)ので、立ち読みする時はなるべく隣町の本屋へ行くべし(経験談)。
とは言うものの、読みたい本は無し。
毎週読んでいる週刊誌はもう読破している。
ファッション系雑誌は目を引くものがない。十八禁エリアは気が引ける。
そんな俺は、無意識にオカルトコーナーへ足を踏み入れていた。普段は絶対に踏み込まない領域である。本棚に並んだ本の背表紙を見流すと、さすがというか、やはりというか、やばそうなタイトルが目につく。
ゾンビの作り方とかやべえだろ。アンブレラ社か。
あとは黒魔術やまじないについて書かれた本が多く見受けられた。驚くことにオカルトコーナーで立ち読みをしている人間が三人もいて、しかもその三人ともが女子で、とてつもなく顔色が悪かった。マジで魔女かと思った。
こんなことを思ってしまうのは偏見でしかないのだが、食い入るように本を見つめ、ページをめくり、時折薄ら笑いを浮かべる様は不気味の一言に尽きる。
まあ、声に出しては言わないけれども。
しかし逆を言えば、ここの本は彼女たちにとっては面白い本になるのだろうと考えると、俺も少しだけオカルト本に対して興味が湧いてくる。
試しに、一冊。
タイトル「蜘蛛呪い」。
内容、まずは脚をすべてそぎ落とし、目玉を一つだけ残す。次に蜘蛛の胴体を頭部から引き離し、胴体部分を軽く咀嚼あーあやめときゃよかった。
ばちんと本を閉じて元の場所に突っ込む。
俺は誓う。今日を境にオカルト本には絶対に手を出さないと。
誓いを立てるとフラグになりかねないのだが、俺には関係ない。関係ないまま帰宅し、さっさと眠って時間の経過に身を任せる。
フラグ回収? あほか。アニメじゃあるまいし。
そんな感じで本屋を出て、来るときに乗ってきた自転車にまたがる。発車前の左右確認は忘れずに。自転車だって立派な軽車両、気を付けなければ人殺し。
そして前後確認をしたときに、俺は気付いた。
遅ればせながら気付いた。
やべえ。
チャリの鍵どっかいった。
◇・◇・◇
急いで本屋に戻ったのだが、自転車の鍵は見つからなかった。
一応、レジの方に届いていないか確認もした。しかし例によって届け出はなし。
うーむ。
こういうときは、自分が辿ってきた道を回ってみるのが鉄則。
とりあえず、自転車の鍵がなくなるまでの流れを整理してみよう。
自宅から本屋までは自転車に乗っているのだからその時点で鍵はあるわけで、なくなったのはそのあと。俺が店内をうろちょろしていた時に限られる。駐輪スペースで落とした可能性も考慮してみたが、俺は本屋の自動ドアをくぐると同時に鍵をポケットに入れたから、その線はなし。
となると……。
俺はトイレに直行した。
通路に入って少し進むと左右に分岐していて、右が男性トイレ、左が女性トイレとなっている。言うまでもなく男の俺は男性トイレの方へ進む。いや、ここで実は女でしたなんて脈絡がなさすぎるうえに気持ち悪いだろ。どの層に需要があるんだ。俺っ娘萌えは知らん。
トイレに入るとまず見えてくるのが全身鏡。
おっと、いい男が映ってるな。ホモォは知らん。
髪が少し伸びてきたなと思いながら俺は個室の扉を開けて回った。つい立の下の隙間へ滑り込んだ可能性もあるだろう。
……なんだか勘違いされていそうなのではっきりと断っておく。
脱糞はしてねえ。
してねえからな!
さておき、どうやらチャリの鍵はトイレに落としたわけではないらしい。
個室の一番奥にある用具収納スペースの扉も開けて調べてみたが、それらしき物は見当たらなかった。
これで振出し。
洗面台に両手をついてため息を吐きだしながらうな垂れる俺の姿は、周りの目にはどう映っているのだろうか。
「おっと、いい男が映っていますね」
………………。
いや。俺、声出してねえよ?
振り返って後ろを確認してみたが誰もいない。
じゃあ、誰の声だよ。
俺はゆっくり正面に向き直って顔を上げた。そして鏡を見た。
そこに映っていたのは俺の姿ではなく、人の輪郭を持った真っ黒い影だった。
◇・◇・◇
「ようやく見つけましたよ」
と、真っ黒い影は言う。
「唐突で申し訳ないのですが、あなたには少しばかり協力していただきます」
鏡に映る自分の姿が真っ黒い影にすり替わっていて、それだけならまだしも、いや、全然まったくまだしもではないのだが、影が喋るという荒唐無稽な現状に俺の頭はついていかない。
「二、三、注意を述べます」
いや、ちょっと。
「まず、死ぬ可能性があることを覚えておいてください」
いやいやいや。
「次に、延命の方法についてですが、」
ちょちょちょ、ちょっと待て。話すのをやめろ! 勝手に話を進めるのをやめろ!
「はい? なにか?」
なにか? じゃねえよ。
お前な、まず人にものを頼む時は「お願いします」じゃないのか。母ちゃんから教わらなかったのか。お前の母ちゃんなに人だ。いや影だからなに影か。お前だっていきなり畳み掛けられたら困るだろ? 「俺の小指の第一関節のあたりから糸が伸びてるんだが何か質問ある?」とか言われても困るだろ?
とりあえず、だ。
説明を求む。
分かり易いように、理解しやすいように。
俺がそう言うと、真っ黒い影は肩を竦めて、
「はぁ、まあ構いませんが──それ、切られないように注意してくださいね」
俺の右手の小指を指さして唐突に鏡から消えた。
今、鏡に映っているのは俺。だけなら良かったのだが。
もう一人、鏡に映り込んでいる。俺の上半身くらいある大きさの鋏を持った壮年の男が、一足にこちらへ突っ込んでくるのが見えた。
動転した俺は足を滑らせ尻もちをつく。頭上の僅か上を巨大な鋏が掠めていき、切れた髪の毛先が何本か床に落ちた。躱した、まだ生きている、と理解できた直後に心臓が大きく跳ね、呼吸が乱れ、全身の毛穴が一気に開く。
俺は、大鋏を刺さった壁から抜こうとしている男の脇をすり抜け、床を這ってトイレから出た。そのまま止まらずに走り抜け、駐輪スペースの壁に背中を預ける。
息が切れる。胸が苦しい。
「糸は無事ですか」
と、例の真っ黒い影の声が聞こえる。
息を整えながら声の発生源を探っていると、俺の影に辿り着いた。
「ふむ、少し持っていかれましたね」
小指を見てみると、たしかに先ほどより少し短くなっているのが分かる。
「アナタの小指の第一関節から伸びる糸。それは簡単に言うと、アナタのライフポイント。そして先ほどのアレは『ソウルイーター』と呼ばれる悪霊。アナタにはこれから」
真っ黒い影は言う。
「ソウルイーターから、ひたすら逃げていただきます」
簡潔で、分かり易い説明だとは思う。
理解できるかは、別として。
「遅ればせながら自己紹介をさせていただきます。私は『オトモダチ』。あなたの影です」
信じてもらえないかもしれないが、聞いてくれ。
あのさ。
俺の小指の第一関節のあたりから糸が出てるんだが。
…………。
何を言っているのか分からないって?
安心していただきたい。俺も現状をよく分かっていない。