７２〜かめん

「馬鹿でも風邪を引くんだな」

　言われて杏子（あんず）は、怒号をまき散らしながらベットから跳ね起きて声の主の胸ぐらを掴みあげた。

　くらいの勢いはあった。心の中では。

　実際には口元まで被った羽毛布団を剥ぐことすらできず、力の入らない手をもぞもぞと動かすのがやっと。ピピピ、と体温計が検温終了のアラートを鳴らしたので脇から外し、目元まで持ってきて温度を確認する。

　ぼやけて見えない。

　うーっ、としかめっ面で目を凝らしていると体温計を取り上げられた。

「三十九度四分」

　高熱だ、と男は言う。

「医者には……行っても意味がないんだったか。まあ、解熱剤程度なら用意できるが、この発熱は、厳密に言えば風邪じゃあないからな……ただの薬局の店主に何かできることはあるか、神藤」

　そんなことを急に言われても、対応に困る。と杏子はまた顔をしかめた。

　というか、こんなに優しく接してこられると調子が狂う。いつもみたいに、淡々と毒舌を並べてくれ。薬局・龍心堂の店主、龍崎誠（りゅうざきまこと）はこんな優男ではない。二言目には給料を人質に取り、暴言の限りを尽くすサドの化身である。

　杏子が万全な状態であるならば、ここでおちゃらけた一言を放ち、いつもの流れになっていくのだが。

「うう……はふ」

　うまく頭が回らない。

　視界がぐにゃりと歪曲し、吐き気がこみ上げてくる。

　同時に言いようのない不安や焦燥が押し寄せてくる。

　思えば、このような発熱といった体調不良に見舞われるのは久方ぶりだった。また今回のように、そばに誰かがいて看てくれているというのも久方ぶりの出来事である。

　こんな時、どんな風にしたらいいのか、杏子は知らない。

　こんな時、どんな風に人を頼ったらいいのか、杏子は分からない。

　自分が弱った時、動けなくなった時の立ち振る舞いに馴れていない。

　ぐるぐる、ぐるぐる。

　視界が回る。

　不意に、ひんやりとした感触を額に感じた。

　心地よさに少し目を閉じ、ゆっくり開くと、霞んだ視界ながら、額に誠の手が乗っているのが辛うじて分かった。

「ちょっと待ってろ。冷えぴたを取ってくる」

　ああ、頼むから優しくするな熱が更に出そうな気がする。と、心の中で毒づく杏子は、持てる力すべてを使って離れていく誠の腕を掴んだ。

「……だい、じよう、ぶ」

「…………」

　杏子が大丈夫という一言に込めた意味をすべて読み取った誠は、杏子の手を布団の中に戻して言う。

「今日だけだ」

　部屋を出ていく誠を二度止めるだけの力は今の杏子にはなく、取り残された自室で一人、ぼんやりと天井を見つめる。

　うまく回らない頭でも、今日の誠の行動について、思うところはある。

　恐らくは──

　──昨日のこと、気にしてるのかな。

　だとすれば、それはお門違いだと杏子は嘆息する。

　魔女の呪いにかかり、その症状として高熱を発症したのは、誠のせいではなく、まず間違いなく自分のせいなのだから。目測を誤り、算段を誤り、着地点を誤った、自分が招いた結果なのだから。

　事の始まりは、三日前に遡る。