へび
風を切る速度で振り向かれた拳が鳩尾に突き刺さった。真芯。ど真ん中。ドストライク。拳が少しアッパー気味に繰り出されたせいで、腕力自体の威力に自分の体重も寄りかかる形で少し乗ってしまい、背中の方に突き抜ける衝撃が、冗談かと思うほどに冗談めいた威力になっていた。
噛みしめた奥歯が浮き、喰いしばった上下の歯が引き離され、肺に溜まった空気が一気に押し出されてなくなり、次の瞬間には弾き飛ばされ、コンクリートの壁に叩き付けられた。
遠退く意識。
酸素不足からなのか、拳打の威力のせいなのか。そんなことはどちらでもいいし、どちらのせいでもありそうだが、しかし消えそうな意識を緋下部(ひかべ)は繋ぎ止める。
──腹は、あるか……?
辛うじて動く腕で腹直筋のあたりを撫でる。
あった。
痛覚だらけで腹の感覚は皆無だが腹は無事だった。ただ、口腔までこみ上げてくる鈍い味が、腹の中身の、臓物の損壊を告げる。
──これで俺の方に分があるって?
冗談じゃねえよ。と緋下部は血の痰を吐いた。
顔を少し上げて十数メートル先に目を向けてみれば、拳を振り抜いた形で静止した人間が一人──否、一柱。背中から伸びた水流の腕六本をうねらせ、生身の拳を下ろす姿が見えた。
自分の方に分があるとは、緋下部は到底思えないのだが、しかし──なるほど。人域を踏み越えた者の姿としては、十数メートル先にいる人物の化物じみた形には納得できるところがあった。
その納得も、相手の事情を知ればこそではあるが。
緋下部はその時の説明を思い出す。あの憎たらしくも頼もしい司書の話を。こちらの方が優勢である理由が込められた話を、回想する。
「機尋」
本を閉じながら、司書の鎌倉居綱(かまくらいづな)はぽつりと呟いた。
「はたひろ?」
「そう。機尋。緋下部くんは知ってるかな? 鳥山石燕の今昔百鬼拾遺」
「知らん」
「だよねー。ごめん、私の配慮が足りなかったね。ああでも緋下部くん、気にすることはないんだよ。人間誰しも知らないことの一つや二つあるんだから。緋下部くんは、それが人よりちょっとだけ多いだけなんだから」
「フォローしたいのか馬鹿にしたいのか良く分からねえ言い回しだな」
「いやだなー緋下部くん。その両方だよ」
「より悪質だ!」
「まま。で、機尋。機尋という妖怪の話をしよう」
「……妖怪?」
「そう。妖しくて、」
怪しい者の話。と居綱は言う。
「機尋はね、布が蛇に化けた妖怪なの。今昔百鬼拾遺によると、夫が出かけたっきり帰らないことを悪い意味で捉えちゃった奥さんが、怨みを込めながら機(はた)を織ったら、布が怨念を吸って蛇に変貌して、夫の行方を捜しに行くっていう風に書かれてる。怖いよねー女の人の考えって」
お前も女だろう、と緋下部は思う。
「まあ、本題はここからで、実は機尋は神さまなんじゃないかなって話」
「話がぶっ飛んだな」
「そうでもないよ。だって妖怪は、人の願いを叶えられないから」
「……どういうことだ?」
「うん、ここはけっこう私の推測になるんだけど、奥さんが織った布が蛇に変貌して夫を探しに行ってるじゃない? これって奥さんが自分でしたかったことだったとは、考えられないかな?」
確かに、怨みを持ってしまうだけの思いがそこにあるのだから、追いかけてとっちめてやりたくもなるような気もする。
「蛇は、怨み妬みを暗示する時があるしね。それに」
それと同等に、もしくはそれ以上に。と居綱は言葉を重ねる。
「蛇はどうしようもなく神さまでもある」
蛇神。
蛇神信仰はさほど珍しくもない。
「その出典出自は様々だけど、有力なものとしては、神さまって機を織るんだよね。伝説でいえば機織淵とか機織池があるし。こうしてみると、水。水辺水際が関係しているよね。あと、これくらいは緋下部くんも知ってるよね。蛇って──水神さまだから」
「……なるほど」
神妙に頷く緋下部。
「蛇の神さまで蛇神。そこから語呂合わせで蛇身。転じて邪心ってわけ」
そういう物の見方をすれば、機尋が水神であるという話も頷ける。
「だけど、鎌倉」
「うん?」
「それがどうしたってんだよ? いや、確かに今の話からいけば機尋に憑りつかれてる──っと、なんだっけ?」
「白鳥ちゃん」
「そう、しらとりちゃん。白鳥ちゃんが機尋に憑りつかれた理由も、読めないこともないけどさ。でも神だって分かったって意味なんてないだろ」
「ほう?」
「願いは叶ってるんだろ? だったらそれって幸せなことなんじゃねえの」
「…………」
沈黙。
ややあって居綱は口を開いた。
「幸せ、ね。憎んだ相手を叩きのめしてそれが幸せだなんて、そんなのはただの暴言だよ、緋下部くん。分かってる? 被害者が出ているんだよ? それも白鳥ちゃんの、彼女の間違いで、思い過ごしで、勘違いで。白鳥ちゃんは自分の彼氏が浮気をしているんじゃないかって疑ってこうなった。でも実際は違ったじゃない。彼氏くんは、潔白だったじゃない。一つでも欠けちゃだめなんだよ。幸せが一つ欠けたら、辛くなっちゃうんだよ」
居綱はカウンターから腰を上げて言う。
「だから止めなきゃだめ。幸せなフリをさせちゃダメ。目を逸らさせちゃ、」
駄目。
それはまるで、子供を怒るようなトーンだった。
年上のお姉さんが、小さい子供を叱る時のような。
こうなっては梃子でも動かないことを知っている緋下部は、やれやれといった様子で肩を竦めた。
「……で?」
「うん?」
「俺は、何をすればいい」
言っておいてなんだが、およその予想はつく。恐らく、たぶん、またぞろバトル展開であることくらいは。
しかし。
「相手は曲がりなりにも神さんなんだろ? 俺に勝ち目はあんのかよ?」
「そこが問題だったんだけど、ていうか問題はないんだけど、ぶっちゃけた話、うん。緋下部くんなら余裕だとは思う」
「はあん?」
「属性」
「ほう」
「あっちは水だろうが、緋下部くんは火だ」
「いや、あのな、そこじゃなくって。神さんに勝てんのかって話だよ」
「だから余裕だってば。だってランクが違うもん。あっちは『水』の中の『神』属性だけど、こっちは火蜥蜴。猛る炎の原点にして頂点。洋風にいうとサラマンダーは『火』の中の『元素』属性だからね。馬力が違うんだよ。それに緋下部くん、あなたは名前に火を宿してる。あなたの火の元は、相当に熱いはずだよ。それこそ、水なんて一瞬で蒸発するよ」