ぼるしち
カレーがないなら、ボルシチを作ればいいじゃない。
そんな、圧政過ぎる言葉を先生から頂戴した僕は、学校最寄りのスーパー木戸蔵にいた。
現在十一時三十分を少し回ったあたり。
学食でお昼を済ませようと思ったら生憎と本日土曜はお休みで、それなら家に帰ろうと電車の時刻表を見たら次まで一時間以上も空きが……。田舎町の公共交通機関は時間間隔の設定が異様に長い。あえなく手持無沙汰となった僕は、学校で時間を潰すことにしたのだった。
今思えば、その時に無理やりにでも帰っておくべきだった。
もしくは、駅の待合室でケータイでも弄っていれば良かった。
休日と言えど教師の一人や二人は必ず学校にいる。部活の顧問とか。日番とか。教師が授業時間以外にどんな仕事をやっているのかなんて、そんな事は知らないけど、新学年新学期開始直後の四月第一週目の週末という条件を念頭に置けば、月曜から金曜までで片付けきれなかった仕事を消化しに来ている先生もいると思う。
その中の一人。
最初亜津子(さいしょあつこ)教諭。
教師が学校にいて。だったらどうした? という話ではあるのだが、この人に限っては前述した類に漏れてしまう。
直接的な表現をすると、彼女は学校に来ているのではなく、学校に住みついている。
連絡路で繋がる横並びの三棟。
その内の一番右側の棟内最奥にある一室。
扉の上の傾いたプレートが、霞んだ文字で辛うじて、そこがどこであるか示している。
第二化学準備室。なんて言うと、ありていに「不思議がありますよ」とか言っている風に聞こえるかもしれないが、残念ながら扉の向こうにるのは、ただの現実だ。
システムキッチン完備。トイレ・バス別。六畳一間。
……ただの現実(賃貸)だ。設備がリアル過ぎて、世に蔓延る怪談話が一瞬で吹き飛んだ。
はっきり言って不法占拠以外のなにものでもない。しかし学校サイドからの警告は何もないらしい。いや、本当、何者だ最初亜津子。
と、まあ、そんな教師が我が校にはいて、校内をほっつき歩いていたら彼女に捕まった、という訳である。
僕は進級前に彼女の世話になっているから、ある程度の行動範囲・行動時間帯というのは分かっていたつもりだったのだが、まさか、こんな日のあるうちに外に出てくるなんて思ってもみなかった。
どころか。
あまつさえ、それだけでも驚きに値するというのにあろうことか彼女は、腹が減ったの、と。そう言ったのだ。
腹が減ったということは、三月一日──彼女の誕生日における騒動の根っこは改善の兆しを見せていると言っても過言ではない。しかし、まあ、これは別の話である。
果たして、僕はなすがまま、言われるがままにスーパーに来ているのだった。
「とは言っても……ボルシチってなんだよ……」
目下、問題は山積みである。
ネットで調べようと試みたはいいが、僕のケータイは未だにガラケーなので画面表示に難あり。文字化けも酷い。
そんな訳で、僕はアドレス帳を開き、さきほどゲットしたばかりのメールアドレスへ文書を宛てた。折りたたんでポケットに戻そうとしたところでケータイが震える。
画面を確認。
〈FROM:最初亜津子〉
〈件名:RE〉
〈本文:ヒント、赤い〉
先生からの返信だった。
早すぎるだろう……!
しかもヒントとかいらねえ! 僕はそういうのが欲しかったんじゃない!
しかもしかも先生が自分で打ち込んだ本文の後ろに、〈早速メールしてしまってすみません。ボルシチってなんですか?〉って僕が送った文章が残っている……。
あの人まさか、機械音痴か……?
「赤いって、またザックリした…………トマトか?」
僕はメールを返す。
数秒してケータイが震えた。
〈本文:トマトなんてこの世から滅びればいいのに。トマトがこの世からなくなっても、困る人なんて一人もいないと思わないか?〉
……トマトは嫌いなのか。
そしてこの文脈から察するに、トマトは使わなさそうだ。
〈本文:そうとは限らない。代用という言葉があるように、本来使用すべき物はあるものの、それに代わって使ってもいい物というのも存在するのだ。そう、例えば城藤(きどう)くん。頭の悪い城藤くん。君の代えなんていくらでもいるように〉
怖えよ!
例えが怖えよそれ!
というか、その長文を数秒で打ち返してくるあたりも怖い!
〈本文:量り違えたな城藤くん。そして見誤った時にはもう遅い。私は風の子。この速度についてこれるか?〉
元気そうでなによりです。
〈本文:ふふ。君はまだ気付いていないらしい。今までの短いやり取りの中に潜ませたヒントに〉
なん、だと……?
どこを見落としたって言うんだ。食材的な要素はあまりなかった。あるのは僕を引き合いに出した、ただの誹謗中傷だけだったはずだ!
〈本文:誹謗中傷とは随分な言いぐさだな。頭が悪いのは本当のことではないか。……ああ、これでは直接的すぎるな。すまない。言い方を変えよう〉
先生は一旦ここでメールを切って。
震えるケータイ。
新着メール一件。
僕はそれを開封した。
〈本文:頭が超ベリーバット〉
すんげえ頭悪そう! ていうか古いよ!
超ベリーバット、略してチョベリバ。一九九五年代に流行っていた今は失われし古代言語。死語である。
続けざまに〈本文:直接的表現は避け、感覚的表現をしてみたのだが、どうだろう? 我ながらなかなか柔らかくなったと思うのだが〉というメールを先生は送りつけてきた。
確かに柔らかくはなったが、意味合い的には一周してより悪くなった感じである。
〈本文:まあ、悪ふざけはともかく〉
悪くふざけていたという自覚はあるらしい。
〈本文:ボルシチの材料とその在りかを教えてやろう〉
最初からそれを教えてくれ。
最初亜津子って名前のくせに、最初から真実は語らないのか。なんてちぐはぐな人だろう。
まあ、ともかくこれでなんとか食材の調達は達成できそうだ。
しかし、ぬか喜び。
〈本文:まずは青果市場へ向かうんだ。主材料のビートは、スーパーには置いていない代物だからな〉
ビート。
ナデシコ目アカザ科フダンソウ属の野菜である。真っ赤な色が特徴。
この田舎町の青果市場は、学校最寄りの駅から電車で三駅目のところにある。徒歩だと一時間以上。
カレーがないなら、ボルシチを作ればいいじゃない?
カレーの方がまだ手軽だった。