72〜3/14
「三百九十八……円?」
瞠目結舌。驚天動地。
我が目を疑うとはこのことだ。
最近は近所の商店街で買い出しを済ませていたから、ここへ訪れるのは久しぶりなのだが、それにしたってこの価格設定は正気の沙汰ではない。やはり、気まぐれにスーパーへ来るより、おとなしく顔なじみの八百屋で買ったほうが良さそうだ。
神藤杏子(しんどうあんず)は食品トレーを片手に、そう思った。
トマト。
三個入りパック三百九十八円。
八百屋で売られている物と比べると百円近く高い。
なにやら巷では、トマトに含まれているリコピンにダイエット効果があるとかで需要が高まっているらしく、このように高騰しているのだとか。また、トマト自体結構大きさなので低カロリーながら満腹感を得られることも人気の要因の一つとなっている。
毎日晩酌のつまみでトマトを食べている身としては迷惑極まりない。それに、同居人の主食でもあるから昨今の高値は家計に響く。
──不服がマッハだ……。
そもそも、前提を間違えてはいないかと杏子は首をひねる。
ダイエットをしたいのなら運動をしろ。痩せたければ食べるな。
太ってしまった経緯、痩せたい理由はさまざまだとは思うが、つまるところ自己の監督不届きが原因であるはずだから、それを顧みれば対処法も自ずと見えてくる訳で。食べる量が多く、胃が肥大化してしまっているのなら量を減らせば済む訳で。
「まあ、それを言ったらお前も晩酌やめるか、つまみを変えろという話だがな」
不意に、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
横を見てみると、黒髪短髪の男がきゅうりを品定めしていた。
というか、知り合いだった。
ため息交じりに杏子は言う。
「……なんでアンタがここにいんの」
「ここは俺のテリトリーだ。そういうお前こそ、なぜここにいる」
「別に理由なんてありませんしぃ。理由なんて必要なんですかぁ?」
「ウザいな」
「あんだって?」
「黙れババア。そっちがその気なら、管理人権限を行使する。お前がマンションに入ったのを確認してからお前の部屋の起爆スイッチを複数回押すぞ」
「ごめんなさい」
龍崎誠(りゅうざきまこと)。
二十七歳。
杏子の高校時代の同級生にして雇い主にしてマンションの管理人。
彼が店主を務め、杏子が雑務係を担当しているマンション一階に入った薬局・龍心堂は、四の付く日は休業日。現在の時間帯から鑑みるに、夕食の買い出しでスーパーに来ているといったところか。
「ていうか、え?」
杏子は頭の上に疑問符を浮かべる。
声が少し、上ずっている。
「起爆スイッチってマジであんの? 爆弾置いてんの? 各部屋に?」
「はあ? 設置しているわけがないだろう常識的に考えて」
「で、ですよねー」
「お前の部屋以外は」
「私の所にはあんのかよ!!」
持っていたトマトのパックでツッコミ一番。インパクトの瞬間、食品トレー越しに伝わってくる不穏な感覚。杏子はそっと状態を確認してから、食品トレーを静かに買い物かごの中へ入れた。
「時に神藤」
「ごめんいまちょっと話かけないで。財布と相談してるから」
「きゅうりの旬は六月から九月くらいまでなんだそうだ」
「あれ? 話聞いてた?」
「お前がかごに入れたトマトも、同じくらいの時期に旬を迎えるらしい。らしいというのも、俺は食べ物の旬についてはあまり詳しくないのでな。知り合いから聞いた話だ。まあ、それはいい。で、旬でもない時期においしい野菜が食べられるのは、すごいことだとは思わないか? それが例え贋物だとしても」
「贋物……?」
「ああ。ビニールハウスという温度的・湿度的に作り上げられた仮想空間で、嘘の世界で、似せの育ちをしている」
贋物。
似せもの。
奇しくもそれは、杏子にも言えることだった。
魔女を殺すことができる唯一の存在。魔女狩りの魔女。影の魔女。
杏子はやんごとなき理由から、その魔女に力の断片を植え付けられ、影の魔女の贋者となった。
完全な力はない。だから贋者。
「ただ皮肉なことに、野菜には自分が嘘の世界で育った自覚などない」
なぜならそれは、自分の育った環境がすべてだからだ、と誠は続ける。
「それでも、贋物と本物を並べられたら俺たち素人には見分けがつかない」
「……結局なにが言いたいわけ?」
「農家はすごいな。という話だ」
それだけではないような気もするが、追求すると小バカにされそうなので、杏子は一旦話し終わらせた。
それよりなにより。
杏子は苦い顔をしてこめかみを押える。
このままでは、一パック三百九十八円もするトマトを購入しなくてはならない。
いま財布の中に入っているのは三千五十一円。トマトの他にも買う物があったのだが、これでは六ロール入りトイレットペーパーを諦め、三ロール入りにしなくてはならない他、ビールも二、三本諦めなくてはならない。
肩を落としてうっすら目じりに涙を浮かべていると誠が、
「貸してやろうか」
なんだか裏がありそうな気がする。
そのうえ誠から金を借りるなんて癪だ。癪なのだが、本当ならば御免こうむりたいところなのだが、背に腹は代えられない(ビールだけは諦められない)。
「マジで? いいの?」
静寂。沈黙。
果たして、誠は無表情のまま口を開く。
「カーシーマーセーンー。ワー」
「アンタとはいっぺん、出る所に出て話をしないといけないよなぁああ!!」
案の定、裏があった。
元より誠は買い物かごも持っておらず、ズボンのポケットを引っ張り出して、そもそも財布すら持っていないことを杏子に向けて示している。
性悪! 最低! 軽薄野郎! と糾弾するもまるで意味はなく、誠は、あの程度の分かりきった嘘に引っかかるお前が悪いんだ。と杏子を更に罵るだけだった。
「口は悪いが嘘は言わない。カマは掛けるが真実を語るんじゃなかったのかアンタは!」
「お前に対してのみ、下らない嘘を吐く事が許されている」
「誰の許可だよ!」
「はす向かいの壇ノ浦さん」
「私ってご近所さんから何か恨み買ってたの!?」
ちなみに、壇ノ浦さんの家はこじんまりとした昔ながらの駄菓子屋である。
と、ここで杏子は気付く。
「……あれ? あのさ、アンタ買い物に来たんじゃないの?」
買い物カゴも、財布も持たず。
「ああ、ちょっと用事があってな────おっと、いたいた」
手を挙げて誰かにコンタクトを送っている。
杏子は首をかしげながら振り返って後ろを見た。
そこにいたのは、今から一月前にあたる先月十四日に出会った少女、二月末日にようやく普通を取り戻したばかりの女子高生。
「かえで、ちゃん?」
浜先(はまさき)かえでだった。
スーパーのロゴが入ったエプロンを付けているあたり、バイトだろうか。
こちらに気付いたかえでが、運んでいた段ボールを下ろし、杏子と誠に駆け寄る。
「龍崎さん、神藤さん。こんにちは」
杏子と誠が挨拶を返すと、かえでは目を細めながら、
「……お二人で買い出しですか。うーん……新婚さんみたいです」
どうやら、勘違いをしているようだった。
「はっ。龍崎さんが前に言っていた『君が思っているような関係じゃない』って。そういうことだったんですね。既に関係は深まっていたあとだったと……ふむ」
かなりおもしろい勘違いを、しているようだった。
「かえでちゃん、大人にはね、恋愛関係で語れない男女関係があんのよ」
「ほろ苦い大人の不倫関係というやつですねっ。渋かっこいいです」
今のは杏子の言い方が悪い。
「いや、というか……えっとね」
「ふむむ。○○以上××未満というやつですか。……あ、ちょっと待ってください。私がその○○と××の中に入る言葉を当ててみせます」
そう言ってかえでは一人で盛り上がり、そしてひとしきり考えた後に答を叩き出した。
「恋人以上。友達未満」
「予想以上にただれている!」
しかもその後ろにはきっと、括弧書きで、身体、と入るのだ。
最近の高校生は、黒いことに興味があるらしかった。
とにかく、これ以上弁解をしても、また違った解釈をされそうなので真相は語らずにいることにする。
「まあ、元気そうで何よりだよ」
「神藤さんもお元気そうで。龍崎さんも」
しかし本当に元気そうだ、と杏子は心中で驚く。
約一か月前。二月十四日。老婆であったあの時からは想像もつかない。浜先かえでという少女は、実は快活で活発だった。そして茶目っ気もある。
これが本来の彼女のあるべき姿なのだと。そう考えると、彼女を助けた杏子としても嬉しいかぎりだった。
「っとと。おしゃべりしすぎました」
「ううん。ごめんね仕事中に」
「とんでもないです。あ、お二人とも、もしお時間あったら、ごはんでも行きませんか? 私もう終わりなので」
かえでの唐突な提案に、杏子は即答しかねる。
今は買い出しの途中。自宅では同居人が主食のトマトを、首を長くして待っているはず。待ちわびているはずだ。
が。
火急かと問われれば、急を要することでもなかったりする。
実際問題、同居人は多少の空腹ならば──というよりも、たしか空腹という概念自体が欠落していたはずだと杏子は思い出す。ともすれば、トマトは主食というよりも嗜好品という意味合いが強い。
好きだから食べたい。
──だったら。腹が減らないんなら、食べなくても大丈夫だよね。
そんな感じで、当人の気持ちをまったく無視する形で簡単に自己完結させた杏子は、誠を見て彼の是非をうかがう。──こくり、と静かに首肯。
「オッケーだってさ」
「はいっ。ちょっと待っててくださいね!」
段ボールを持ち直し、よたよたと倉庫へ入っていくかえでの後ろ姿を見ながら、杏子は誠に尋ねる。
「アンタ、用事がどうこう言ってたけど。まさか……?」
「いや、浜先かえでに異変はない。まぁ、念には念を入れて、いわゆるアフターフォローというやつだ。日が日だし、あれから大体一ヶ月は経っているしな。そう考えると、区切りだろう?」
アフターフォロー。
騒動から約一ヶ月。
本日三月十四日。
「まあ、ね」
「という訳で、ちょっと付き合え」
かえでが来るまで時間も少しありそうだし、できることなら煙草の一本でも吸いたいところだが、生憎今日は持ってきていない。
代わりとは言えないが、上着のポケットに入っていたガムを口に放り込んで、杏子は短く漏らした。
「トマト、まけてくんないかな」
これは、その後の物語り。
教訓も何もなかった物語りの、後日談である。